外国語副作用

通常、抽象的な思考を司る部位(連合野、というらしい)と、言語を司る部位(ブローカ野とウェルニッケ野)は脳内で分かれているそうですが、普段使わない外国語などを抽象的な思考を司る部位で処理していると思考に回せる処理リソースが足りなくなって馬鹿になるという現象が起こるらしいです。
私たちプログラマーにとってはプログラミング言語は手続き型だろうと関数型だろうと言語野で処理するもので(なので、「言語には音韻処理が必須」という仮説には懐疑的。Haskellなんか「ドル」とか脳内で発音してるとは思えない)、抽象的な思考には関与しません。が、何らかの理由で脳の処理リソースが極端に減ると言語を司る部位でもプログラムが出てこず、抽象的な思考を行うところでもかろうじてクラスの組成が出てくる程度でその実装までは出てこない、なんてことが起こります。
さすがにこの状態で納品用のプログラムなんか書けるわけが無く、ジェームス・ティプトリーJr夫妻の死期の話を思い出して暗澹たる気分になりましたが、幸い、数ヶ月で何とか復帰したので一安心。


脳の情報処理リソースが極端に減って、何も出来なくなる(生きていることすらも危うくなる。生命維持って思ったより情報処理リソース食うんだぜ。足りなくなるまで知らなかったけど)と自覚できるのは幸いです。「外国語副作用」を知ったのは回復したあとですが、「あれのことか」としみじみ実感できました。とりあえず今できるのは、普段から負荷をかけておいて、必要になったら負荷だけ外すって事ぐらいかなぁ。休ませちゃうと休んだところで安定しちゃうのでかえって危ないし。
今、ちょっと危険です。