色々と考える

やー、PCのブラウザってのは便利だね。目がほとんど見えなくても際限なくフォントをでかくすることが出来るし。今裸眼視力計ったら凄いことになるんじゃないかな。焦点も合わないし、まつげに乱反射してぼやけるし。目の前10センチまでディスプレイを持って行ってもぼやけて見えないんだもんなー。こんな時は寝てるに限るね。
……うそ、寝てられません。じっとしてるの辛い。論旨からトップダウンで構成を考えるちゃんとした文章書く気力もないし、色々だらだらと。

  • 堕落する準備はOK?

らくえん あいかわらずなぼく。の場合」をやってます。
ノベルゲームなんか一気に読んでしまえって感じですが、ほんとにボイスのある女性キャラはともかく、脳内で男性キャラまで再生される(お気に入りはカントクと恵さん。田中さんもなかなかいい感じ)ので、読むのに時間がかかります。
7年前の時点でも独特でしたし、今でも独特なのはそのままで別に古くなってないキャラは非常にいい感じです。イベントCG見てるときちんとプレイしたくなります。
いいわー、これ。
プロデュース的な問題として、エロゲ業界をネタにしたエロゲになってますが、これをテレビアニメにするのならアニメ業界に、これを映画にするのなら映画業界に置き換えないと楽しめないストーリーではありますが、メタな青春群像。「あいかわらずなぼく。」が作品名で、なおかつ主人公のことで、登場人物全員のこと(それこそ、ミニミの田中さんや恵さんまで)なのがみんな等しくあいかわらずダメというのがおもしろい。
作品としてはいびつなところもありますが(いちにーちゃん周りのエピソードは書いておいた方が起動直後のおまけシナリオが効いてくるはずだし、劇中劇の書き込みが薄いので、ちえりシナリオが薄くなってる。ヒロインごとの力配分も変。アバンタイトルの意味が薄いので各話サブタイトルと「続く」がかなり唐突。等々)、そこも含めて愛おしいです。
「直すならここだなぁ」って部分と、「この作品をこの作者が作った」というのは独立してますからね。少なくとも、絵描きとシナリオライター(あと、たぶん作曲家も。自信ないけど、ノリノリで音を取って、曲を作っていると思う)が何を訴えたくてこういう話をエンターテインメントに仕立て上げたのかが凄くよく伝わってくるので、私ならここを直す、なんてのは野暮。
「堕落する準備はOK?」というキーになる台詞を手を変え品を変え何度も出し、その言葉と「あいかわらずなぼく」に全面的な肯定をしたこの作品のパワーは凄いと思います。
文学って思考や習慣に影響を及ぼすものもあるし、及ぼさないものもあるのですが、エンターテインメントはもし仮に影響を及ぼさなくてもやっている間が楽しければだいたいOKです。でも、楽しかったエンターテインメントの「楽しい部分」が思考などに影響を及ぼすのならその方が私は楽しいです。自分の思考は固定したものではないですし、異物が思考をかき乱すこと自体は別にまずくありません。不快な意見や、明らかに同意出来ない意見があったとしても、それはそれ。聞いてみないと判らないですから。
その意味でこの作品は直球です。「一番いいたいこと」が作品の快楽に関わってきます。確かにこれ自体を快楽と感じない人もいるかもしれませんが、それは仕方ないですね。そういう人には「一番いいたいこと」も伝わらないでしょうし。
あいかわらずかもしれなし、変わらなくちゃならないこともあるかもしれないし、でも、「あいかわらずである」ことを認める必要もあるだろうと。自ら望んで「あいかわらず」なのであれば、それはそれで幸せだろうと。判りやすく「物作り」をテーマにしてますが、これはただのフックでしょう。
堕落する準備があれば、それがどこであっても当人にとってはらくえんですから。

  • やくざな商売

おいらはドラマー♪
というCMで早速言葉狩りにあってますが、「やくざな商売」ってのは、確かにあります。
というか、何も制約がない状態だと、だいたいやくざになります。カタギなのは、「わざわざカタギでいようとする」何らかの意志や外からの力がなければなかなか実現出来ません。なので、カタギ(不幸が最小になる理想的な状態)にするための力が大きく働きます。法律とか、社会的通念とか。
創作がやくざな商売というわけではありません。ただ、カタギであろうとする力よりも「創作自体の力」が強いとカタギにならない傾向があります。創作は一種の麻薬みたいなものですから。かくして創作者はどんどんやくざになっていきます。その方が楽ですからねぇ。
でも。
カタギである必要は必ずしもないでしょう。少なくとも、「カタギであるために創作をしない」なんてのよりはずっとましです。カタギという概念は単なる手段。創作こそが目的。
そして、目的は創作である必要は全くないと思います。「自分がしたいと思う何か」に堕落する覚悟さえあれば、生きていくことができます。社会的通念の力におぼれることなく。

  • 創作は命

私はたまたまゲームが好きで、たまたま機械が好きで、たまたま音楽が好きで、たまたま物語芸術が好きなので、何か作ってないと生きていけません。商業的な理由ではなく、精神的に。
コンピュータやエンジンや科学知識に詳しいのも、元は単なる手段。もちろん今はコンピュータにもエンジンにも科学知識にも愛着はありますが、それは好きなものが増えたってだけでしょう。
どちらがどれくらい好きか、とか、どれを落としてどれを残すのか、とか、悩むことは色々あります。残念ながら人生の時間は有限ですし、私の体は徐々に壊れていることが自分でも判ってます。
好きなものが見つからない、という人も世界にはいると思います。昔はいなかったのに、最近増えてきたというものではありません。一定の割合で必ずいます。昔いなかったように感じるのは「カタギであれ」という社会的圧力が相対的に大きかっただけです。
有限の時間の中で「好き」と思えるものに当たる確率は残念ながらあまり高くありません。そういう意味では私はかなりラッキーな部類です。
私にとって、創造は命です。創造ができない自分は既に死んでいます。
創造のために必要な責め苦なら気にせず受けます。なにせ、堕落する準備はもとよりOKですから。