文化と言語

エホバ、天を発れて下り給う。
御足の元、暗きこと甚だし。
エホバ下りて、彼の人々の建つる街と塔を見給えり。
いざ我達下り、かしこにて彼らの言葉を乱し、
互いに言葉を通ずる事を得ざらしめん。
故にその名は、バベル(混乱)と呼ばる。
災いなるかなバビロン、その諸々の神の像は砕けて地に伏したり。

「映画版パトレイバー」の訳を援用しています(誰の訳なんだろう?)。


「お互いに言葉を通じないようにした」って割にはヨーロッパの人たちって相互理解できてますよね。確かに言語はいろんなものがあって、お互い影響を受けあってますが、ラテン語からどんどん派生していって現地の言葉とぐちゃぐちゃに混ざっていった割には統一ルールがあったりするし。統一ルールから外れてるのはトルコの人たちぐらいかなぁ(中東の言葉はよくわからない)。
言語ってのは当然ながらそこに住む人が使うもので、わざわざ普段と違う言葉を使うのは学術論文を書く際にラテン語(どこの国でも使ってないけど、みんなが一応わかる)とかかなり特殊なケースだけです。なので、言語と現地の文化は割りと密接に結びついてます。慣用句に「何でこんな例を使うのだ?」ということがあったり、フランス語の数字みたいに「何で20が基数なんだ?」とかいうことがあったりってのが割りとあります。が、結果的に世界各地で使われている英語みたいな言語は徐々に文化と切り離されて、文法も単純化されて来ていますので、まぁ、標準語として使う分には割といいかなーって感じ。とりあえず、コンピュータのプログラムを書く分には識別子にはなるべく英語を使うように心がけていますし、Javadocみたいなコメント/契約にはなるべく(うそ表現でもいいから)英語で書けるよう気をつけています。日本語よりは読む人多そうだし。
人工言語としての標準語であるエスペラント語も、文法は単純なのですが、英語由来のコンピュータではサーカムフレックス(ĈĜĤĴŜŬみたいなの)が7bitでは扱えなかったりしてちょっと面倒ですし、エスペラント語で発音している人が少ないので結局「お互いに言葉を通じないようにした」ってのは変わんないかなー。これも言語と文化が切り離されてるのはいい感じなんだけど。


この間ヴェトナム語をちょっとかじって、普段時間があればドイツ語のオペラを対訳付で読んで、英語の授業を聴いたり(うぉぉ、この忙しい時期に放送大学の課題提出が重なってる!)技術書を読んだりしていると、なんか全体を通しての言語に対するフレームワークが少しずつ見えてきます。チョムスキー生成文法みたいなきっちりしたものではなくて、習得のためのフレームワークといったらいいのかなー。どうせ言語なんか後天的にしか習得できないので、その習得過程を追体験しているというか。
私は脳内での思考が言語に依存するという説には非常に懐疑的で、言語は「脳内の思考を表現する」ためだけに存在すると思っています。抽象的なもの(私風の言葉を使うと「なんかもやもやとしたわけの判らないもの」)に名前をつけて連想をシリアライズする過程でたまたま言語を使っているだけで、表現が一次元的じゃなくちゃならない理由ってないよね、と。
私は母語の習得がとんでもなく早かったらしいので(3才前にして仮名漢字交じりの文章をすらすら読んでいたらしい。うちにあった学研の図鑑全集様々)、言葉になる前の記憶がまったくないのですが、なんかこうやって自然言語を学習してたんじゃないのかなー、というぼんやりとした何かが見えてきています。
いや、これがコンピュータ言語となると一瞬で覚えられるんですけどね。この違いはなんだろう。やっぱ人工言語のほうが文法構造が単純だからかなー。ちなみに、コンピュータ言語も文化と不可分です。もっともこの文化は「一階論理記述」とか「ラムダ演算」とか「手続き」とか「カリー化」とか、生活とは無関係なものですけど。生活とは無関係だけど、自然言語と同様に「イディオム」があるのは面白いですね。