ザル法と法の理念

成文法は

  • 慣習法が社会的に醸成される
  • 為政者が社会をある方向に導こうとする

と、そのもやもやとした何かを「法の理念」として言葉に直して出来上がります。なので、「法の理念」のない法は無く、すべての法は何らかの理念を実現するための道具として使われています。ちなみに、あくまで近代においては「為政者」は「間接民主主義による総意」が形を持っているものなので、王様だったりすることはあんまり無いです。全くないとは言わないけど。


なので、その時点で想定していなかった問題がその法の関係する領域にあとから生まれたときには次のうちどちらかを選ばなくてはなりません。

  • 法の理念になったはずの慣習法を元に類推する
  • 法の理念そのものを変えて、その結果、法自体も変える

アメリカやイギリスは慣習法に重きを置いているので、最初の手段を執りたがる傾向にあります。日本は後者ですね。その割に実際には法があんまり変化しないけど。
法が変化しないまま世界が変わると、法の領域では理念を実現することができないので、その法は「ザル法」になります。
最近では「マクドナルド店長過労死裁判」なんてのもありましたね。これなんかは使用者と労働者という対立軸を中心においた労働関係の諸法ではまかないきれない例として使われていますし、そうじゃなくても「一人株式会社」なんかにおいては使用者はいても労働者はいないので労働関連の法は適用されないなんてのもあります。実際には使用者が労働してたとしても。
なにも、何から何まで成文法で縛る必要があるとは思いません。世界は変わるし、世界が変われば法も変わるし、法の解釈や学説も変わります。
ただ、「成文法にないから」という理由で、法が元々持っていたはずの理念自体をゆがめてしまうと、あとで付けがどこかにやってくると思えてならないのです。


と、大学の「法学」の授業で習いました。
落ちはありません。