ポストモダンの印象

Florian はポストモダンが嫌いです。正確には「ポストモダン」と自称する芸術などの作者、評者のおごりが嫌いです。実際の「ポストモダン」自体の作品はさほど嫌いじゃありません。
どうも、 Florian が読んだことのある「ポストモダン」に対する言説のほとんどが、結果として何も言っていないようにしか見えないのです。ありもしない実体に対して論理をこねくりまわしているだけというか。
あまりに謎なので、昔ポストモダンに詳しい人に聞いたことがあります。
ポストモダンってなんですか?」
「近代合理主義を否定したものを総称して『ポストモダン』」
「補集合? だったらほかに説明の方法がありますよね」
「だめ。説明できてしまったら、近代合理主義に取り込まれるから、ポストモダンじゃなくなる。だからポストモダンを具体的に説明することは出来ない」

  • AはB以外のものである
  • Aは定義できないもののことを指す

……って、結局論理言語的にはなにも言ってないですよね、これ。
「定義が困難」なのは、まだわかるんですよ。実際の現実世界における事柄のほとんどは言語による定義はえらい困難ですし。
でも「定義できない」ことをそのアイデンティティにおかれちゃうとねぇ。万人に共通の理解をさせることをはなから放棄しているんじゃないのかなぁ。
ま、それ以前に「理解できない」のではなく「定義できない」ものごとがこの世界にあっていいはずがないという心情が大きいのかも。