苦労の絶対量と「どうせできない」という諦め


「昔よりもハードルが高くなったからゲームを作るのが難しくなった」という話をよく聞きます。それも、実際にゲームを作っている当人よりも、作ろうとしている(つまり、作っていない/作ろうとして挫折した)ワナビーから。
こんな話も聞きました。
「作りたいのを作るの難しいから(スーパー)マリオ(ブラザーズ)くらいの簡単なゲームで」。
スーパーマリオをばかにするなって感じですが、昔、今よりもその当時市販されていたゲームの模倣が割と簡単な時期があったのは確かです。
実際にできあがるゲームのクオリティはともかく、苦労の量としてグラフにしたのが右上のものです。ハードウェアが単純であれば、それを駆動するミドルウェアは必然的に単純になります。ハードウェアを作るのはハードウェアベンダーですので、アプリケーションを作る側の人は気にする必要はありませんし、ミドルウェアもハードウェア側が提供するのでこれまた気にする必要はありません。
少し前まではハードウェアばかりが性能が上がっていました。この上がった性能を使えばいろんなことが「できる」という言い方をするのがベンダーの言いぐさで、実際にどうすればできるのかはアプリケーション側が気にする必要がありました。
ゲームを作るのに同じだけの苦労をして、にもかかわらずクオリティに差が出るのはあまり好ましくないので、今は少しミドルウェアががんばってアプリケーションの側でやっていた「定型作業」だけを引き受けてくれます。とはいえ、あくまで引き受けるのは「定型作業」だけですで、苦労はあまり大幅には減りません。


ゲームに必要なトータルとしてのクオリティ(=苦労)は増え続ける一方です。
「昔はゲームに入門するのは楽だったのに」とか、「昔は予算少しでゲームが作れた」という郷愁は今のまま進めてどうにかなるものではありません。ミドルウェアを含めた開発環境(IDE)が様々なことを引き受けて、アプリケーションの側の「苦労」を可能な限り引き受けるようにしないと未来は暗いでしょう。「昔はよかった」といいながら入門しない人に対するいい訳をつぶすこともできるはずです。
「どうせできない」のではなく、できない理由を世界の趨勢の所為にすることができてしまう現状がまずいと思っています。