魔法少女まどか☆マギカのネタバレもしくは早川書房の宣伝

という訳で、ネタバレですよ。
大丈夫ですね?



パッケージングとコンテンツの関係を非常に考えさせられる落ちでした。
落ちそのものはたいそうシンプルで、それこそ80年代日本SFはこの手の落ちばかり作ってました。

挙げればまだまだたくさん出てきます。当然かの「新世紀エヴァンゲリオン」テレビ版最終話なんかもこの手合いですね。SFマニア的には「アンノ最後で投げやがった」と見ましたが。
セカイ系なんて言葉が出てくる20年も前からずっと日本SFはセカイ系ラブだったのですよ。ちなみに全部早川書房の文庫で読めます。早川が如何に日本SFを引っ張ってきたことか。
「天を越える旅人」なんか、QB(?)も出てくるし、ループ(?)するし、最後のお願いで世界を改変(?)するし、元の世界に肉体残らない(??)んですよ。もう、まどか以外のなんだと。ほむらに当たる人いないけど。


ま、そこはどうでもいいんですが。
重要なのは「パッケージング」です。「魔法少女」というのはこういう物である、という共通認識があって、なおかつそれをきちんと作内で「これが魔法少女物というパッケージ」と言及してて(9話まで、言及しないまま終わっちゃうのかとどきどきしてた(^^;))、その上でコンテンツを載せるという手段をとっているので、パッケージがきちんとパッケージとして機能してます。またいろんな人がこのパッケージ自体に魅力を感じて、その結果「このコンテンツ、もしかして魅力的なのかもしれない」と錯覚(魅力的なコンテンツかどうかは最後まで見ないと判らないので、それまでは全部錯覚です)できたのがすごいな、と。
パッケージング重要です。繰り返しちゃいますが。人を引きつけるには中身ではダメなんです。結局中身がなかったときには見終わってから文句いわれますが、文句いわれる分だけマシです。文句も言われないで中身も見られないのが一番痛い。という意味で、パッケージングが凄くうまかったなぁ、と。
もちろん、毎回の演出や、明らかにストーリーよりもパッケージにすり寄った絵面や、思わせぶりな音楽や、ストーリー自体の引っ張り方が非常にうまかったというのもありますが、第1話の時点で「もしかしてこれ、化けるかも」と錯覚させるようなパッケージの作り方は凄く見習いたいです。
さらに、きちんとパッケージの内側でコンテンツ語ってるのがまたえらい。「エヴァテレビ版」は最後の最後でパッケージ自体を投げましたからね。
ちなみに、パッケージの内側でコンテンツを語っている(というか、パッケージ自体にしょっぱなで言及している)極北は「残像に口紅を/筒井康隆」です。しまった、これだけ早川書房じゃねぇ(笑)。