制作者と鑑賞者の境目

創作物全般に対して、かなりテンプレート気味に言われる台詞があります。
「作った事もない奴が批判するな」


たしかに、制作者の事情を知らないで無邪気に批判(その言葉がいやなら批評でも、感想でもお好きな言葉に置き換えてください)するのは、的外れになる事もあります。鑑賞者からすると建設的な提案をしたはずの批判が、制作者からは単なるFUDにしか見えなかったり、批判自体が無意味だったりする事もあります。
さらに、一度似たような物を自分で実際に最後まで作ってみると、なぜ作品がそうなってしまったのかの事情が読み取れます。わざわざ創作者自身が自分の価値基準に照らし合わせて、価値のない作品を作る事があるとは思えません。となると、そこには何らかの原因があり、原因は実際に作ってみると判る事が多いです。
なので、試しに作ってみて、その感触を元に様々な創作物を見てみるとただぼんやりと見ていた時と違った感触が得られると思います。ここ半年ぐらい、私が関わっている「がまぐ!」というゲーム制作雑誌なんかはまさにこのスタンスですね。読んだ人が皆ゲーム制作者になる必要なんか無くて、ただ、「思ったよりもゲームって作れるかも」という体験を提供したいという所から立ち上げてますので。
で。
そんな立場の人間からあえて言わせてもらうとですね。
「作った事もない奴が批判するな」なんて言葉が出てくるのはあまりに世界が狭いと思います。
そりゃ、作れば判る事は多いですよ。多いし、それ自体は凄く有益なんですが、「だから作らなければならない」とまで言われると、そこまで不自由なのは、ちょっとなぁ、と。


制作者は、制作者なりの方法で鑑賞者に何かを感じさせようとしています。うまくいく事もありますし、全くかすらない事もあります。
でも、鑑賞者から見て、それがうまくいったから価値があるのか、かすらないから価値がないのか、それよりも「うまくいかなかったからジャストミート」というケースだって、全く見分けは付きません。というか、見分けが付くくらいなら、「感じさせよう」という事が既に失敗してるってぐらいの勢いで。
なので、鑑賞者はもっと自分の感触に自信を持っていいと思います。無責任に感じた事を表に出していいと思います。「相手に悪いから配慮した表現で」というのは、制作者の連続した人格を認めてくれているという意味では涙が出るほど嬉しいですが、それは、「制作者は嬉しく思っている」という以上の意味はありません。作品とは別です。


なぜそうなっているのか、自分だったら何ができるのかを考える事は楽しいです。それだけでご飯三杯いけます。この楽しみをしらない人にはたっぷり伝えたいです。
でも、「そうじゃなければならない」世界は私はいやです。