教育と機会平等と才能

マンガ「エマ」の中で、こんなセリフがあります。

私も教育というものがどこまでどこまで有効か興味があるの。

教育は、有効です。教育によって様々なことが判ります。もちろん、当人がそれを受け入れようという意志があってこそですが、受け入れようという意志があれば、かなりのレベルまで教育によって補えます。人間の能力って、後天的に獲得する部分の方が、先天的に持っているものよりずっと大きいです。なので、能力と機会の平等を社会的に実現するためには教育は必須です。
でも、「これをしたいと思う」というところは実は教育できません。興味を持たせることは出来ます。その上で、全く同じ知識レベルまで教育したときに「他のことに比べてこれを選ぶ指針」自体は割と当人の持って生まれたところによります。
なので、教育すれば「ハッカー因子」が生まれるわけではないというのはその仮定によっています。ハッカーじゃなくてもコンピュータを使うことは出来ます。職業プログラマーになることだって可能でしょう。でも、ハッカーである職業プログラマーと、ハッカーではない職業プログラマーでは職業に対する考え方が大きく違います。
どちらがいいか、という問題ではありません。あ、いや、どちらかというと「ハッカー」の方が職業プログラマー的には損失が多そうです。経験上。
でも、ハッカーじゃないと進められない歴史というのは歴然とあります。たまたま今のところ、コンピュータの歴史はハッカーだけが駆動してきました(ハッカーじゃない職業プログラマーは歴史を駆動するほどではなかったように見えます)。
ハッカーは才能というよりも、持って生まれた趣向に近いです。なので、ハッカーの才能ではなく「ハッカー因子」なのでした。自分は「ハッカー因子」を持ってないと落ち込む必要はないんですよ。そこは、プログラム作成の能力とは無関係ですから。