エンターテインメント物語のタブー

昔、折原みと(実は同郷だったり。ちょっとびっくり)が「時の輝き」の映画化をしたときにインタビューに答えていたのがおもしろくて、

少女小説では「親」の存在を出さないのが重要。

と言っていました(1995年ぐらいの月刊シナリオでのインタビューだったと思う)。
確かに、少女小説の読者の年齢層からすると親の存在は無視できないけど、いなければいない方が快楽が引き出せるような夢の世界な訳で、特に「時の輝き」みたいな人生を左右するような物語の中で大人の視線が出てこないのは新鮮でした。
で、映画版は大人の男性がシナリオを書いていて、しっかり親が出てきてしまっていて、たいそうつまらなくなっていました。インタビューを読んでからシナリオを読んで、なおかつ映画を見て「ダメじゃん」と思ったというか。


同様に、直木賞を受賞した「青春デンデケデケデケ」(究極超人あーるや涼宮ハルヒに並ぶ傑作文化部小説)でも、「大人になってから若い頃のことを書いている」というスタンスをとりながら、大人になってから初めて判る視点や「あの頃は良かった」みたいな言い方を可能な限り避けているのが印象的でした。
これまたやっぱり大人の男性がシナリオを書いて映画にしていましたが、「今現在の姿」がばっちり画面に出現しちゃってて「あちゃー」と思ったような気が。「時の輝き」ほど致命的にダメではありませんでしたが。
ライトノベル(?)を他メディアに移すときには、判っている人じゃないとやっぱり凄く重要な要素が抜け落ちる気がするですよ。原作のAIR出崎統(白鯨もブラックジャックもいい)も大好きだけど、「出崎統AIR」はさすがにないわー、と思ったし。確かに笑えるんだけど、そこは笑っちゃダメだろう、やっぱり。


クドはトイレ行かない、とかも、私がライトノベルとして読むには大人になりすぎたせいもあるんだろうなー。もっとも、私自身はずっとSF者やってるので、作内世界にタブーを設定するよりは、「そのタブーを書かなくても許される設定を作る」ことに腐心していたような気も。これを、設定じゃなくて意図的に書かないとSFから離れてファンタジーになるんだろうな。きっと。