否! 断じて否!(http://d.hatena.ne.jp/shi3z/20100827/1282907546)

念のため。総論では正しいこと言っていますし、方法論も正しいです。この電通の人たちは非常にいい経験したと思います。
が。
が!

実は日本のゲーム会社でいっぱしのゲームクリエイターを名乗っている人たちも、ゲームの仕組みをきちんとクリエイトできる人はほとんど居ない。
「企画」と「設計」は明らかに違う仕事だが、そのあたりの分業が日本のゲーム会社ではあまりできていない。
大多数の人が常に「なんとなく」作っているという印象を僕はいつも受ける。
企画書も仕様書もあるが、仕様書は無視することを前提に作られたりする。
仕様書の意味が、いわゆるシステム開発とは天と地ほどにも違う。
結局、面白さの部分の大半は、実はプログラマーが設計しているというゲームは少なくないのだ。
専門学校であっても、「ゲームの作り方」という作業は学ぶが、ゲームの仕組みそのものを作り出すようなやり方は学ばない。
だから世にあふれるゲームは、何かのコピーか、そのまたコピーしかなくなってしまう。
目新しい要素として入ってくる新システムも、実はあまり目新しくない。
結局、ゲームの個性は世界観や絵柄といったことにしか反映されず、仕組みそのものが発明されることはほとんどない。
コンピュータゲームの業界はそんな感じだが、全く別の発想がうまれている場所として、カードゲームの世界がある(略)

前提条件から。

  • 「コンピュータゲームにおいては」現実のゲーム制作の現場はその通りだけど、「それを良し」と思っている風潮は問題がある。
  • 「おもしろさの大半が実装者のさじ加減」「仕様書を無視すること前提」なのは単に企画者がへぼなだけ。そんな企画者は今もいらないし、今後はもっといらない。
  • 「何となく」で作っている人間や「世界観」や「物語」こそがゲームの根幹だと思っている人間がはびこる限りゲームは縮小再生産を余儀なくされる。これは、最初のものよりももっと問題がある。
  • 多くの専門学校では「作り方」という作業すらも学ばせてもらえていない。「作り方」まで踏み込んでいるのはごく一握り。
  • 「企画」と「設計」は分業するべきではない。企画者が設計を行い、可能であれば実装まで行えるようでなければゲームというあやふやなものは形にならない(http://d.hatena.ne.jp/shi3z/20100807/1281163624)

というスタンスで話をします。


「何となく」とか「フィーリングで」というのは、私が企画者を教育する際には彼らに真っ先に禁じていることで、そんなものの先に未来はありません。企画者は自分の頭の中の何かもやもやとしたものを伝えてこそなんぼで、そのためには補強するための資料だったり、きちんとした設計だったり、明確なビジョンを形にすることだったり、自分で実装して検証することだったりが要求されます。ぶっちゃけ、「私はプログラムができないから企画者になりました」なんてやつはもういらないです。現代は簡易言語でかなりいい線までゲームが作れるご時世なので、簡易言語くらい使えてなんぼです(本当なら、簡易言語で製品レベルまでいければいいんだけど、そこまではまだ達してない)。
「何となく」とか「フィーリングで」とかを肯定する企画者が今でもはびこっているのは、私は老害だと思っています。たいがいそういう人はたまたま「何となく」が当たったという成功体験にしがみついているだけなので、いずれメッキははがれると思っていますが、今からそんな人を量産する意味はそもそもありません。そもそも、風潮自体を改める必要があります。
なので、企画者というのは自分の「何となく」や「フィーリング」を伝わる形で伝える必要があります。それも可能な限りノイズが少なく。さらに言うのであれば、そのイマジネーションはプログラマーやグラフィッカーを抱擁するぐらいの度量が必要です。自分の足りない何かを実装者に手伝ってもらうこと前提の企画者というのはクリエイターとしては失格だと思います。そういう意味では創作に「真の意味での」コラボレーションはあり得ないと思っています。
さらに言うと、「何となく」や「フィーリング」の結果がゲームの仕組みであることは非常に少ないです。というのも、世のゲームクリエイター予備軍は「ゲームを楽しんだ」記憶はあまりに少なく、現在ゲームを作っている人も「ゲームを楽しんだ」記憶は実際にはあまりありません。例えば例を挙げると、「ファイナルファンタジー8のストーリーに感動しました」とか。あれのどこに感動する要素があったのかと小一時間問い詰めたいところですが(しないけど)、小学生のときの超絶なグラフィックや音楽が自分の手で垂れ流されるという感触をインタラクティブコンテンツとして鑑賞してしまった人間は、「インタラクティブ」(行為)には興味を示しますが、「インタラクション」(中身)には興味を示しません。ゲーム作りの原動力として「自分はこれが絶対的に楽しいと思う」という信念は必ず必要ですが(というか、これがないと完成させることも危ういと思う)、その興味がインタラクションに向いていない限り、外見だけが真似されて、その縮小再生産になるばかりなのは自明でしょう。
ぶっちゃけた話で言うと、1年に発売されているゲームの本数を考えるとすごいことになります。毎年年末にやっているファミ通の読者投票のノミネートによると、ベスト版や移植作なども併せて約1000作品。これが毎年続いています。累計で言ったらユニークな数ではそれこそ数十万タイトルになるはずです。こんな中で「真にオリジナル」なものを作るのはほとんど無理です。たとえ「真にオリジナル」なものを思いついたとしても、それがなぜ今までなかったかというと、

  • やってみたらつまらなかった(やる意味がなかった)
  • やること自体に致命的な欠陥があった
  • そもそも作ること自体が無理だった

からこそ作られてこなかったと考えるべきです。
だからといって、縮小再生産が認められるわけではありません。確かに縮小再生産は商業的にもわかりやすいですし、マーケッティングとして売り上げの予算を立てやすいです(割合ゲーマー側からの視点では忘れがちですが、ゲームには必ず「損益分岐点」が設定されて制作が開始されます。なので、「お金かかってないゲーム」と見えるのは、何も物理的にお金がなかったからではなくて「損益分岐点の低い企画、と誰かが判断した」からです)。でも、「真にオリジナル」なものを目指さなくてはだめです。商業主義いいじゃないですか。ストーリーとか世界観とかで真にオリジナルを目指すから他のメディアの縮小再生産、既存ゲームの縮小再生産になるだけで、ゲームに必要とされているのは常に「新しい視点」です。その「新しい視点」を商業として成り立たせることこそがゲームクリエイターに必要とされていることです。そこをはき違えてしまってはいけないと思います。


なので、間違っているのは「何となくで作っている」という風潮を肯定することです。
そのためには「何となくで作っているクリエイターの業界への新規投入」を食い止めることが必要です。十分な教育を受けたはずのクリエイターが、周りに流されて「何となくで作っている」のを誰かが怒ることも必要です。
そして、「何となくで作っている」人がいなくなる、--これは、「何となく作っている」人の思想を啓蒙するという意味でもあり、「何となく作っている」人を淘汰させる(業界から追放する)という意味でもあります--という未来を切り開く必要があります。もう、先達の義務として。先達はそこまでやる必要があります。
このためには企画と設計の分業なんてのが意味があるとは思えません。それがゲームと呼ばれるジャンルの商業製品である限り、企画者の頭の中の「何となくこんな感じ」を正しく実装することができてはじめて「企画者」が「企画者」でいられるようになります。
ゲーム業界においては「企画者」は非常に低く見られています。これは、「企画志望」で入ってくる新人が雑用しかやらされず、「企画補助」(といえば聞こえはいいですが、単なる雑用)こそが企画の職務だと思われている点もかなり大きく影響していると思います。でも、たまたまそうだからといってそこは肯定すべきではありません。
企画者が顧みられもしない仕様書を書いていればいい時代は終わりました。今後はよりゲームの内容に踏み込み、ゲームのルールやインタラクションを考察し、ゲームを「作る」ことに心血を注ぐべきだと思います。


と、いうわけで、大上段に「否!」と言いましたが、否定するべき部分は以下だけです。

「企画」と「設計」は明らかに違う仕事だが、そのあたりの分業が日本のゲーム会社ではあまりできていない。
大多数の人が常に「なんとなく」作っているという印象を僕はいつも受ける。
企画書も仕様書もあるが、仕様書は無視することを前提に作られたりする。
仕様書の意味が、いわゆるシステム開発とは天と地ほどにも違う。
結局、面白さの部分の大半は、実はプログラマーが設計しているというゲームは少なくないのだ。
専門学校であっても、「ゲームの作り方」という作業は学ぶが、ゲームの仕組みそのものを作り出すようなやり方は学ばない。

ここを肯定してはいけないと思います。消極的な否定(shi3zさんは消極的な否定に見えます)ではなく、積極的な否定をするべきです。
少なくとも、私は「ゲームの仕組み」についてはうるさいぐらいに教育しています。……とは言っても、世にあまたあるゲーム学校の中でも極端に特殊な学校の一部クラスの話なので、山火事にコップで水をかけているようなものですが、それでも、消極的な否定では足りないと思います。
お願いですから積極的に否定してほしいと思っているのです。