クドわふたー

ま、いつものふたりはおいといて……。
クドを倒した。


はい、皆さんご一緒に。
あー、それにしてもクドはかわいいなぁ。もう。


いやいや、いい話でした。わふたー編が終わったところから先のロケット作りの話も燃えますし、ゾンデを使ったメッシュネットワークの話なんかは私が初めて「クドリャフカ」という名前をKeyの人たちが使うということを聞いた際に真っ先に考えたプロットにそっくりでした。

  • 今までのKeyのやってきた「痛い話」
  • クドリャフカ」という名前
  • どうやら宇宙開発ネタらしい

ときたら、「助からない宇宙船を何とかしようとして泣き崩れる女の子」というのは既定路線ですね。クォーカ、クローム色のカプセル、ほんとに愛してたのに。
そういう意味では全然期待を裏切らないというか、予想の範囲内というか。順序制御せずにきちんと落ちまでつけるとは思わなかったけど(きっと二周目は助からなくて、三周目でやっと助かるだろうと思ってた)。むしろ、本編側のあの呪術的な話の方が予想外でした。


わふたー編を終えたときには「大丈夫かな、この話」とはちょっと思いましたが、ノーヴィ・ミール2(クドの日本での名字「能美」にかけてるのか)の事故のあたりからきちんと物語になってきて一安心。むしろ、モデルロケットを作っているあたりではこのまま終わっちゃうんじゃないかとどきどきしていました。「ラブラブあまあま」はモデルロケットの手前くらいですっかりなりを潜めちゃいますし、モデルロケットを打ち上げることが何かキャラクターの深みを持たせるようなエピソードになるとは思えないし。
そういう意味では、「ラブラブあまあま同棲生活」を期待していた人にはむしろ予想外の展開だったのかなー。ま、Keyがただの甘い話で商品作るわけないでしょ。
もっとも、Keyの悪い癖がきちんと生きていて主人公とヒロイン以外の存在がただの「舞台装置」に成り下がっているのは、セカイ系にしようとしていることは判るんだけど、何ともなー。そもそも、物語を解決したのはクドじゃないし。確かにテレビに映された主人公の行動や、被害者の娘であるというクドの存在自体が世界を動かした感情移入ポイントになっているのですけど、ゾンデとメッシュネットワークもそのシステムの公開もクドは何も手を出してないし。主人公は「考えろ」ってさんざん言っているくせに自分では考えてないし。主人公がしたのは「決断」だけ。
エロゲーという商品ではなくきちんと物語として成り立たせるのであれば町の人の協力や犠牲がほしかったし、そのためのネタ振りとその回収というプロットにするべきだったと思うな。ええと、例えば、変電所をジャックして町全体の光でモールス信号とか。これのせいでライフラインはずたずたになるし、主人公たちは責任をとらされてひどい目に遭うけど、でも、真に大事なもののためには犠牲は払わなくてはならないというテーマを書けるし。


音楽は非常によかったです。テーマ曲「At the mountain behind」が、案の定クライマックスで押さえた形で流れるし(そうそう、こう使わないと)、全体的なアレンジもいいですね。「リトルバスターズ!」本編でここぞというときにずっと使われていた現代音楽風のインプロバイゼーションが全くなかったのは、作曲の人が現代音楽嫌いだからかな? それとも、あの曲は不評だったのかな?
エンディングが霜月はるかだったのはちょっとびっくりだったけど、わふたー編のエンディングでそのうち「生音で演奏しますよ!」というメッセージがずっと入っていたのでピアノやストリングスがきちんと歌っているのは期待通りにいいです。
主題歌のアレンジもうまいところで使われていてこれもいい感じ。ところが、全部終わってからわふたー編をやり直すとムービーと主題歌「One's Future」が激しく浮いています。いや、わふたー編からしてそういうゲームじゃないだろう、これ。


ロシア宇宙開発ネタはそのあたりを楽しみにしている人間としてはちょっと嬉しいですね。ソユーズ(英語読み)がきちんとサユース(ロシア語読み)になってるし、セルゲイ・コリョロフの話もたくさん出てくるし。そうか、孫娘なのか。
途中のTASA広報官のネイティブなロシア語は一瞬どきっとしましたがこれもいい演出。途中台詞の端々に出てくるロシア語もこの声優さんが監修してるんですね。なるほど。正しいな。
ただ、テヴアはロシアの宇宙開発を引き継いでいる割に「朝開き丸」(イギリス児童文学である「ナルニア国物語」が元ネタ)なのはちょっと違和感が。あの宇宙船もミールの直系なのに(という描写がある)何でイギリス文学なのかと。ロケット(というか、帰還機)はきちんとブラン(!)なのに。国際宇宙ステーションからテザーをおろすという話だから、ESAの実験モジュールをテヴアから打ち上げていると考えるべきなのかなぁ。


でもこれ、わふたー編でさんざんネタ振りされているように、「現実での話」ではないんですよね。本編側での共同幻想の一環としてクドが見せている幻だと思うとなんかこう、覚めるというか。どうせバスの脇で目が覚めるとあの幸せな家族の肖像も、宇宙開発の夢も全部消えると思うと。むしろ、あのバスの中でクドと主人公以外の人物は全部死んだ後に見せている幻想なのかなぁ、と思うと背筋が寒いです。なにせ、出てこないから、リトルバスターズの面々。二木さんも元寮長も氷室さんもクドの記憶だけで成り立たせることができるキャラだし。
もっとも、同じようなことはAirでは主題歌やエンディングでずっと歌ってましたけどね。
物語世界に入れ込みすぎるな。これは夢みたいなもので、これを踏まえて読者が今日から先の未来を歩くことこそが重要であるって。
メタフィクションや積極的な夢落ちを物語の中心に持ってくるとこういう外伝的な話は作りづらいですね。


(ちなみに、「いつものふたり」は「リトルバスターズ!」本編をやってません。例のインターンは原作はやっても「リトルバスターズ!エクスタシー」はやってない。なので、あのエントリーでは「いい話だったなー」という感想で終わってます)