ゲームデザインをするということ

私はゲームクリエイターとしてはシリアスゲームに懐疑的です。「ゲームをすると役に立つ知識や思考が手に入る」という宣伝文句もさることながら、そんなことを免罪符に使おうという社会的な流れにも懐疑的です。免罪符なんか何の意味もないことは、宗教改革を乗り切った西洋人ならよく知っているでしょうに。それとも、今時の西洋人の思考は宗教改革以前に戻ってるのかな(アメリカ人に限っていうとあながちギャグにもならない今日この頃)?


ゲームは、役に立ちません。楽しみを提供する以上のことは残念ながらゲームにはできません。役に立つものを期待してゲームを遊ぶというのは、実質的な金銭が手に入ることを期待してパチンコをやるぐらい無意味なことです。
ゲームは現実もしくは非現実(面倒なので今後「事象」と呼びます)のモデル化と、モデル化に対するユーザーの介在だけで成り立っています。モデル化のないものはゲームとして成り立ちませんし、ユーザーの介在のないものも同様にゲームになりません。モデル化は通常、ユーザーからの入力の時間方向の履歴を受け取り、それに対する返答を返す、状態を持つ関数として作られます。このとき、ユーザーが「何をおもしろいと思うか」ということに関しては様々なテクニックを使いますが、何をしようと関数であるという事実は揺らぎません。
ゲームデザイナーはモデル化の方法論をデザインし、それに対する応答をコンピュータなどで提供する形になります。
なので、モデル化の方法論に対して変更を加えることのできるゲームは、「ゲームとしては」楽しむことができません。


オープンソースのゲームがあってもいいと思います。ルールに手を加えて遊ぶという方法論自体もありです。でも、「モデル化」自体を否定されちゃうとゲームクリエイターとしては「それは違う」としかいえません。何せ、いかに楽しませるかを考えてモデル化を進めているので。
同様のことはゲームに限らず言えるんですけど。文学作品はオリジナルを改変すると多くの場合オリジナルより感情に対する効果が劣るものとなり、音楽は独自解釈を入れると作曲当時の唯一絶対の孤高にはたどり着けません。
ぱくりや独自解釈大いに結構。ただし、オリジナルがなぜそうなっていたのかを考えない改変にはたいした意味はありません。改変したことだけが意味があるような風潮は間違っていると思います。コラボレーションも合議も創造性とは直交する軸にあるのです。