ファイナルファンタジー2と3について(http://d.hatena.ne.jp/shin/20100210/p2)

魔法学校の先生をやってもう10年にもなりますが、毎年自己紹介がてら新弟子に「心のゲーム」を聞くことが恒例行事になっています。
で、今30歳前後の人たちに、彼らが18歳位の時に「心のゲームは?」と聞いたときに圧倒的な得票数でトップに輝いたのが「ファイナルファンタジー3」でした。
もちろん、彼らが感受性豊かな時期にインパクトあるものを見たらそれが印象に残るのは当然ですので、平均年齢と「いつそれに触れたのか」によって傾向が大幅に変わるのは当然としても、「ファイナルファンタジー3」のインパクトは結構なものがありますね。


ファイナルファンタジー」のシリーズで初期3作はシナリオに寺田憲史、プログラムにナーシャ・ジベリという当時から見てもすごいスタッフが気合いを入れて作っていたのが見て取れる作品でした。「あのナーシャ・ジベリファミコンのソフト作ってるよ!」と大変興奮したものです(Apple IIの数々の伝説を聞いていたので)。無駄に多いパラメータと、それがいろんなことによって微妙に変化していく様は今のCRPGで必須とされる「やりこみ要素」の先取りですね。
特に2の半ば崩壊しかけたゲームバランスと(チート技をさんざん使わないとまともに進めることすらもかなわない難易度!)、3のハマリ上等のジョブチェンジシステムなんかは、ある意味神がかっていました。特に3はストーリーやキャラよりも「ジョブチェンジに失敗してやり直し」と「1時間以上かかるラストダンジョン」が皆の心にインパクト(というか、心の傷?)を残していました。
当時(今でも?)、ファイナルファンタジーはキャラ主導のストーリーとイベント主導のストーリーを交互にやっていたので「システム重視のファイナルファンタジー奇数番」「ストーリー重視のファイナルファンタジー偶数番」とかいわれてましたっけ。


で。
ファイナルファンタジーといえばやっぱり1か2だよね、というのは確かに個人的にはそう思います。
2でもその傾向はあったのですが、3以降になるとゲストキャラが多数出てきて自己犠牲(ここで一句。「世はなべてミンウのアルテマ」。死亡フラグはあまり役に立たないの意)、という物語パターンが多用されすぎで、かなり食傷気味だったのを覚えています。最後にそれまで死んだキャラの幻がふと背後に見えて、主人公たちが振り返るともうそこにはいないという演出を見たときには「どこの聖闘士星矢だよ」と思いましたっけ。
実際、3までのシナリオをやっていた寺田憲史はプロデューサーに指示された人の命の扱いの軽さに幻滅して、それからしばらくゲームのシナリオから離れることになりました。「ゲーム批評」でのインタビューは印象的でした。
2まではスタッフが乗りのりで作っていたのが見て取れるのですが、3くらいになると作業として仕方なく作ってるんじゃないのかなぁ、とうすうす感じられましたっけ。DS版のリメイクはよくできたんですけど、ファミコン版は特に。


確かにゲームは人の命を死亡フラグによる感動のための便利な道具として使いすぎな傾向にあります。ストーリーの都合で勝手に殺すことができる割には、システム的に死んだときには容易に復活させることができるという背反する状況があって、物語を書こうとするとシステム的に殺すことができないジレンマを内在しています。ミンウも今までも何度も死んでるのに何でこのときだけ帰ってこないんよ。
もっとも、この辺は始祖であるWizardlyの「HPが0になると死亡と見なす」というルールに縛られていたためといえます。なので、今時のRPGはHPが0になっても「戦闘不能」であるというだけの扱いにして、戦闘が終わるとHP1から継続するという手で逃げたりしています。まぁ、ガラパゴスな進化を遂げてしまったJRPGで、Wizardlyの呪縛にずっととらわれ続ける理由もないですやね。
もちろん、この辺に果敢に挑戦したタイトルもありました「ラングリッサー」とか、「Final Zone-Wolf-」とか。でも、

「このミッションは俺一人で行く」
「・・」(ここに何か突込みが入るはずだったけど、その人はすでに死んでいるので出ない)
「・・」(ここにもそれに対する突込みが入るはずだったけど、その人はすでに死んでいるので出ない)
「では、いくぞ」

みたいなやり取りが続くと、さすがにドラマは語れないよなぁ、とは思います。ドラマを語るためにはキャラクターを殺してはまずくて、キャラクターを殺すことによってドラマを成立させるのであれば、システムの側でなんか言い訳を用意しておかなくちゃならないとなると、どうにも話を進めづらいです。
そう考えると、一番いいのは「一人でも死んだらゲームオーバー」ですね。たとえば、RPGではありませんが「Gears of war」において、親友のドミニクが戦死したらその場からやり直しです。また、よく勝手に突っ込むんだこれが。「ああもう! ドム勝手に行くな!」と感情移入させることができればかなりゲームとしては成功しているといえるでしょう。
ドラゴンクエストV」においても、前半のパパスとの冒険でパパスが死ぬことは絶対にありませんし、「LUNAR Eternal Blue」にいたってはプレイヤーを見捨てて一人で回復する完全AIキャラなんてものが存在します(で、後半とたんに仲間思いになると。いいツンデレ)。
もうそろそろ、死亡フラグで感動させようという中二病ドラマツルギーは卒業してもいいんじゃないかなー、と思ったりする今日この頃です。「戦場のヴァルキュリア」はいいゲームだけど、しょっぱなから死亡フラグ立ちまくり(で、ほんとに死ぬ。お約束)なのは、もうちょっと何とかしてもよかったと思いますよ。死亡フラグの立っていないネームドキャラは絶対に死なないとかあるし。どちらかというと劣勢な戦争なんだから、人がたくさん死んで当然ではあるのですが・・。


あれ? ところで何の話だったっけ?