プロトコル

protocol:外交手順


まぁ、利己的な行動規範を持たないといろいろとじり貧なので、たいがい利己的には振る舞いますやね。
不特定多数の人に好かれるために取れる手段は割合いろいろあって、

  • 自分が楽しいように表から見えるように
  • 自分ローカルの話はしない
  • 相手の気持ちいいことしかしない

この辺を常に心がけると好かれるという話らしいです。
これらを総合すると次の一言になります。

  • とにかく共感

確かに人間の理解できる範囲は実はかなり狭いので、自分の身に当てはめて考えないと何一つ理解できません。創作物がリアリティを元に作らざるを得ないのはまさにこれですし、説得のための手段として感情を発露させるのも、同じ感情を相手に与えることで自分の立場などに対しての譲歩を引き出す為です。


ただ、共感は人間に所与として備わっている力かというと、どうにも。というのも、ごく狭い社会であれば共感できる部分が人格の大部分を占めるでしょうけど、これが広くなるに従って共感できる部分は徐々に減っていきます。
たとえば、私は宗教という存在自体が許せませんが、宗教を行動の前提に生きている人にはなぜ私が許せないかは理解できないでしょう。
プログラマーと非プログラマー。おたくと非おたく。文系と理系。男と女。いろんなところに断絶はあふれています。
もちろん、断絶の手前の部分も場合によっては存在します。じゃぁ、その手前の部分だけで共感していればいいのかというと、さすがにそれは狭すぎ、なおかつかなり詳細な破壊検査が必要になります。非破壊検査もいらず、必ず共感する会話としてよく使われるテクニックが「今日はいいお天気ですねぇ」ですね。ま、これでも相手の職業によって共感できなかったりはするのですが。
なので、これを突き詰めて考えていくと、価値観の多様化がやっと許されるようになった現代においては「とにかく共感」という題目はかなり時代に合わなくなってきていると思えるのです。
そしてなにより、共感を中心においたプロトコルを採用すると、この先さらに価値観が多様化する世界において断絶がどんどん加速するように思えてなりません。
価値観の多様化をとるか、これ以上の価値観の多様化を許さないのか。この件に関しては中道はあり得ません。


そこで、流行の最先端のマッチョとしては自分の都合のいいように世界を書き換える必要があります。

  • 相手の説得のためには共感を道具として利用
  • 自分は相手に絶対共感しない

特に重要なのは、同意であっても、非同意であっても共感を論拠にしないということです。自分の感想は感想として留保しつつ、共感できればどうにかなるという幻想を相手に抱かせないようにします。
すると、共感を中心に話す人ほど、理解されないことに対して切れ始めます。切れ始めたらもうこっちのもので、共感以外の話をまくし立てても内容について反論することはほぼありません。曰く「言い方が気にくわない」「目が気にくわない」「自分で出来てないくせに」。
あとは、我慢強く共感をベースにした皮を剥いでいけば大体の交渉はおしまい。
以降、交渉する相手にいやがられるという欠点はありますが、徐々に共感に訴えてくることをあきらめて、内容だけで話をし始めます。
すくなくとも、スムーズに回りますよ、ビジネスだけは。喧嘩腰の対応をされたところからはなかなか発注が来なくなりますが、まぁ、そういう人と一緒に仕事をしてもどうせデスマーチだと考えれば心も痛みません。
問題は、はたして断絶が多くあるこの世界において、断絶に気づいている人がどれだけいるのかということです。
断絶の存在に気づかず、共感のみを世界理解の方法として異物を排除する人がまだ多いようであれば、この先の未来にはかなり殺伐とした世界が広がっていそうです。
あ、いや、断絶と共感をあきらめた先の世界でも、さばさばとした世界は広がってはいるのですが。


殺伐とさばさば。
ローカルな人間のメンタリティは、どこまで変われるのでしょうか?