商業創作と情念

あくまで、一般論です。特定の何かと考える人は嫌いです(よ)。(最近KannonのドラマCDを聞き直したらしい(^^;))。


商業創作をやっていると、マーケッティング結果や世界の趣味の趨勢などに色目を使いながら創作をする必要がどうしても出てきます。だって、作品自体の出来じゃなくて、作品を作り始める前に企画書を書いてそれを通さなくちゃ、作り始めることすらもできないんだもん。
実はこれは新人賞や駆け出しなんかでも同じ事が言えて、何とかしていろんな事に色目を使わないと読んでももらえない……ような気がするってのは確かにあると思います。
でも、結局読者が見ている表面のわかりやすい記号って、作品の出来とはぜんぜん無関係であることが多いです。とくに、出来のいい(感銘を受ける)作品って、記号自体に感銘を受けているのではないのに、印象に残るのが記号なのであたかも記号自体がすばらしいかのように勘違いしがちです。
結果として、ある記号を使ったすばらしい作品が出たあとは、その作品の出来とは無関係に雨後の記号がたくさん生える羽目になります。
記号自体が悪いとは言いません。よりしろが何もない創作物はどう読んでいいのか判らないので、作品自体の出来になかなかたどり着けません。特に大衆は狭量ですので(あ、大衆の構成人員がすべて狭量って意味じゃなくて、最大公約数をとったら、結果として狭くなるって意味ね。念のため)記号があるということが見る最低限の条件にされてしまいます。


で、結局作品の評価みたいなものにつながるのがどの辺にあるのかと考えると、どうにも 情念 みたいな何ともあやふやなところになるんじゃないのかなぁ、ってのが、最近の Florian の結論です。
どんなにマーケッティング的な理由や、作劇理論で武装しても、理論の間をすり抜けてこぼれる何かみたいなものが作品に定着すると、定着した部分が妙な印象を残すような気がするのです。おもしろいとかそういうわかりやすいところを抜けて。
もちろん、作品に情念が漏れ出して、無条件で良い評価になるかっていうと、そんなことはありません。いびつな部分ばかりが目立って、素直に読めないものになってしまう可能性もあります。
でも、作劇理論とかがきちんとあって、いろんな 自分はこれが好きなんだ!だから書かざるを得ないんだ! みたいなほとばしりを定着させられれば、少なくともそれに入れ込んでいることは判りますし、うまくすれば自分と同じぐらいに読者がそれに入れ込んでくれるかもしれないです。
きっと、きちんと書かれたほとばしりは、圧倒されるか引かれるかのどっちかに落ち着くんじゃないかと。


ただ、少なくとも商業創作に関わる人間としては、記号とマーケッティングだけで創作行為をしてしまわないように気をつけないと危ないと思います。
エンターテインメントとして何の引っかかりもない作品を作っちゃうというダークサイドには簡単に落ちることができます。や、割合作れちゃうんだ、これが。すんなりオーダー通りのものになるので、クライアントにも喜ばれるし。なにより、まとまった作品を作るとスキルが上がった感触あるので、気がつくと成功体験におぼれがちだし。
でも、その成功体験に背を向けながら、最大公約数やオーダーの内側にどれだけ引っかかりを作れるかが、やっぱり職業クリエイターとしての矜持なんだろうな、と考える今日この頃です。
商業創作を志す人は、そこを考えて欲しいです。むき出しの情念ではなく、情念を読ませるための記号なのだと。作劇理論は目的ではなく、手段なのだと。


……棚の上から見ています。はい。すみません。全然できてません(;_;)。
実装だけなら簡単なんだよなー<創作してないよ、こいつ(^^;)