CLANNAD了

長い長いゲームでした。一日でできる時間がほとんど無い(あっても一、二時間程度)なので、実に発売から一月かかっちゃいましたが、めでたく「歌の違うエンディング」にたどり着きました。
例によってむだ改行。















もういいかな?
何というか、萌えないゲームでした(^^;)。いや、前作「Air」のころから「無理に萌えてもらわなくてもかまわないから」という製作元Keyの意志はビンビンに感じ取れ得たので、いまさら気にしてもなんですけど。
萌えないギャルげーに何が残るかというと、最後に残るのは「物語」とそれに付随する作者の感情だけです。いや、これはギャルゲーというカタルシスが分かりやすいエンターテインメントだから、そこしか残らないという言い方になるだけで、一般的な物語エンターテインメントと同じ土俵に立ったってだけなんですよね。
キャラクターとその引き起こす特定の感情(一般的には恋愛感情)に焦点を当て、それだけを第一義においているギャルゲーというジャンルの作品群は多少なりと物語にカタルシスがなくてもさほど困らないですが、自らギャルゲーであることをある程度放棄した今回の「CLANNAD」は、じゃ、カタルシスを提供できているかというと、少なくとも Florian 的には微妙な線で提供できているようには思えます。
「提供できているようには」というかなり微妙な表現になっている理由をお話しましょう。


物語とは、エピソードをあたかも受け手が追体験しているかのように感じさせることができて、初めて本来の機能を発揮します。この追体験はなにも作内人物と受け手を同一視しろという訳ではなく、相手の立場が判り、その感情の由来が判り、そして初めてその感情の変化が妥当なものとして受け手の感情が動くのだと私は思っています。だから、小学校の国語の授業は、文学を登場人物の気持ちになって読むことを強要しますし、読書感想文へのとっかかりは作内人物に対する手紙というスタンスを教育の途上でとります。
Keyの(というか麻枝さんの)一連の作品は、キャラクターの造形にこだわる(ないしは凝る)あまり、感情移入を妨げる方向でキャラクターが作られる傾向にあります。おそらく、製作者としては多少ぶっとんだ造形であったとしても、受け手が長い時間をかけてキャラクターを丹念に追いかければその内部やその感情の動きも自分のことのように感じ取れる日がくるに違いないという確信があって、意図的にそのようにしているのだとは思いますが、結果としてキャラクター造形単体に入れ込みづらいという傾向が表に現れます。
この傾向はKeyもう一人のライター久弥直樹さん(どこいったんだろう(^^;)?)が一部キャラを担当していたKannonにおいてその差が顕著で目立ちましたが、前作(Air)、今作(CLANNAD)となっては麻枝さんが作品全体のカラーを決定しているため、しばらく見ているうちに「そういうものかも」と思えてきてしまいます。
もちろん、「そういうものかも」と思わせることができれば製作者側としてはしてやったりなのでしょうが、だからといって感情移入までに時間がかかるという状況が改善される訳ではなく、幸せ->不幸せの落差が激しい物語構成に圧倒されながらも、キャラクターをリアルな人物として捕らえる前に終わってしまうという結果を招いてしまいがちです。
このため、Keyの(麻枝さんの)物語は、物語が上滑りしている印象がかなり強くなっています。
CLANNADは、ゲームを遊んでいる時間がかなり長めの(つまり、長い時間キャラクターと付き合う)ゲームとなっています。にもかかわらず、物語が上滑りをするという感触はある意味変わりません。
そりゃ、ものすごく長く付き合う渚と汐、秋生と早苗に関してはキャラクターの造形は嫌というぐらい押し付けられてきますが、今度は彼らは感情移入の対象とはならずに、主人公と同様に傍観する対象として見る羽目になります。むしろ、主人公が物語上感じる感情の側が優先されてしまい、相手をリアリティをもって見ている主人公(同じ世界の住人である以上当然ですが)の感触だけで受け手の印象が上書きされてしまうという結果になってしまいます。
総合して見ると、受け手は物語を物語足らしめている主人公の感情に振り回されて、自らの感触をもって物語をなぜることが難しくなっているように思えるのです。
前作(Air)において、クライマックスは主人公の意志を無視して登場人物だけの都合で進めるというアクロバットを演じたKey(麻枝さん)は、今作はより一般的な物語の演出手法に挑戦したという方向性は判ります。
前作(Air)では完全な傍観者として第三者の視点に立つプレイヤーは物語の構成要素としての登場人物を受け入れつつもそこから疎外されてストーリーだけを純粋に楽しむことができましたが、今作は物語だけを純粋に楽しむには主人公の意志が介在し過ぎ、かといってキャラクターを第三者的視点で見るにも主人公オフセットがかかり過ぎ、結果として「主人公はこう思った。だから、受け手は同じように感じてほしい」という大変幼稚というか、即物的な語り口に見えてしまうのです。
このため、一つ一つのエピソードは教科書的によく整っており、なおかつ作者(麻枝さん)の執念なども行間からかいま見られるにもかかわらず、物語をそのまま追いかけて楽しむという物語芸術の本来の楽しみ方をしていいのかどうかと自問しながら鑑賞するという結果になってしまいました。
これが、「提供できているようには思える」という微妙な表現と、私の正直な感想なのでした。


念のため、CLANNADという物語自体は嫌いじゃないです。物語構成的には前作(Air)のむだを削ぎ落とした、意図の見え易い(でも、一般的ではない)構成の方が好みですが、これは、物語の本題以外への言及の度合いによる好みの問題でしょう。
一応妻子もちなので(^^;)、AFTER STORYのカタルシスと汐編の痛い姿と落ちもかなり心に落ちてきました。
でも、表現方法や物語に対する姿勢では、なんとなくしっくりこない気がしているのです。
ぜいたくですね(^^;)。


あ、ちなみに、光を集め切るまでのとんでもない高難易度や、数多くある引っ掻け選択肢や、複数プレイをまたいでのフラグや、順序制御による不幸せの連鎖は、「物語世界に引き込もう」というKeyの強い意志によるものでしょうから、これをなくしたら表現できないものがあるんだと思っています。・・でも、オタク以外にやらせるためにはこの辺、多少変更の必要があるでしょうね。
リアル世界に余り生きていないオタクの人がCLANNADをやってうるうるするという光景は、なんとなく寒い物を感じますし(おまえはどうなんだという自己突っ込みには心に棚(^^;))、かといって、一般人がこんなゲームをやるとも思えないし。東浩紀のところのダイアリーのコメント(id:hazuma:20040505#1083698556)に「オタクの保守性にマッチする」と言ってましたが、本当かなぁ。うーむ。
Key(麻枝さん)は社会に対して、もしくはマーケッティング的にどういう意図があってこんなゲームを作ったんでしょうね。前作(Air)の時には「お子さんでもお生まれになったのかなぁ?」とか思いましたが、よくよく考えるとMOONも似たようなネタだったよなぁ、とか思ってみたり(^^;)。
ま、商品だからといって社会に対する責任や意図が必要だという訳でなし、心に映る由無し事を書き連ねてゲーム(作品)に仕立て上げているのかも知れませんね。
あー、それとも逆に心の闇をうずめるために物語創作活動をしているという根源的な欲求から考えると、単に闇が深いってだけなんでしょうかね。
ま、どちらにしても次回作も多分買うでしょう。頑張ってください>Keyのみなさん