なんでいまさら?
CEDECで昔の知り合いに割と聞かれたのが、「なんで青年海外協力隊にいまさら?」ということ。
せっかくなのでちょっと説明します。
案の定、私が中学生ぐらいの時にさだまさし(と、谷山浩子)に入れ込んでいました。で、その頃アルバムで聞いたのが「風に立つライオン」だったのです。
衝撃でした。あの途中で入る「アメイジング・グレイス」も感動的でしたし、手紙として完結している凄い広がりのあるドラマに大感動して、「ところでこの人は何故アフリカなんぞにいるんだ?」と思って調べたのが「青年海外協力隊」を知ったはじめです。
そのまま調べていくと、これまた当時はまっていた谷甲州が青年海外協力隊のOBだと言う話だったり、「惑星CB-8越冬隊」(超名作)なんかがその経験を微妙に物語っていたりと、いろいろ想像の翼が広がります。
大学時代は近所(でもないなー)でやっていた説明会にも行ったりしました。説明をしてくれた人に「せめて大学くらいは卒業してから行きましょうや」と言われて、いや、その通りだな……と思って、結局卒業しなかったんですが(^^;)。
そのあとの人生はサラリーマンをやったり、先生をやったり、社長を10年近くやったりと激動の人生を送ってきましたが、ある夏倒れてそのまま病院送りになって、それまでのしがらみがほとんど無くなってしまったときにふと思ったのです。
いまなら、あのとき行きそびれた「青年海外協力隊」にいけるんじゃ無かろうか、と。
条件を調べてみると年齢的にはぎりぎりでした。その時点であと3回チャンスがあることも判ったので、体に無理があるのは判った上で、応募してみた、というのが今までの流れになります。
体に無理があるのは応募する前から判っていました。何せ過労で倒れたばっかりなのでまともな体であろうはずがない訳でして、案の定1回目の応募では体調面で落とされました。
でもまだあと2回あります。少しずつ体を回復させながら虎視眈々と狙ってます。
国内で「がまぐ!」みたいな活動をしている時点で日本語圏への協力をしているとも言えます、が、出来れば狭いかもしれないけどまったくそういう意識のない海外にコンピュータの技術(出来れば、それがゲームに近いとなお嬉しいです)を伝えたいという意識があります。
マルドゥック・スクランブルで登場人物たちが「自らの有用性を証明することによって生きていることが出来る」という言い方を何度もしていますが、そこまで深くは考えていません。結果として有用だと個人的には嬉しいですが、有用である「必要」はないと思ってます。個人的な趣味というか欲求のために身を粉にしている、という感触があればいいなー、というだけで。私が商売人に向かないのは、これを「人のために」とは考えてないところですね。
人は、自分のためにしか生きられない、と思っています。人のために生きてもいいけど、それが感触として正確に理解することはできない以上、「人のためであるという自分の錯覚」のために生きているとしかいいようがありません。
今の私は純粋に自分のために生きられます。面倒くさいトラブルやしがらみはちょうど今この瞬間無くなりました。長い人生の中でもかなり希有な経験です。
この短い間に「自分のため」を大いに謳歌しようというのが「青年海外協力隊」という選択肢なのでした。
え? 次は通るかって? やー、どうでしょうねぇ。何せ倒れたりしたあとすぐに体がよくなるとも思えないしなー。やるだけやってみます。あと2回。