教育という社会システムについて

元ネタは是非検索して下さい。キーは「教育にお金取ってもいい」です。


まず、立場の表明から。


私はついこの間まで約15年にわたってゲーム系の専門学校で担任をやったり、講師をやったり、自分で会社を興してゲームを作ったりしていた、教育専業でも、プログラマー、ディレクター、ゲームデザイナー専業でもないコウモリのような人間です。その上専門はなぜか「仕様書の書き方」とか「物語の構成」とか。自分で書いてて訳判りません。
で、かなり長いことSqueakやScratch、OLPCのプロジェクトなどをウォッチしてきました(残念ながら渦中で過ごしたとは曰く言い難い)。教育学も大学で(今まさにまさにリアルタイムで)やってます。という、一風変った、というか偏った立場からの意見だということをさっ引いた上で読んで下さい。


なぜ「教育にお金を取ってもいい。とらなくてもいい」のと、RMS(Richard M. Stallman)のフリーソフトウェア運動が結びつくかというと、人間個々人が持ちうる「技術」という物自体は、人類社会全体で共有されうるべき物であるという点で共通だと思っているからです。これ、別に極端な発想ではなくて、RMSの信者の人たちがいやがる古典的な「特許」みたいな物も、元々は同様の発想でできあがっているはず(と、特許法の授業では教わる)なのですが、技術の共有よりも「共有するためにはどういうビジネスシステムであるべきか」という部分がすっかり先行してしまって、今は結構おかしなことになっていると思います。
と、考えると、例えば「お金を持っているから」とか「たまたま教育されるのにいい地理環境にいるから」とかいう理由で技術が行き渡らないのは人類社会として見ると損失だと考えられます。できる限りその不均衡をなくす方向で考えないと、自分を含めた人類社会全体としては損失でしょうし、人類社会によって生かされている自分の生活もしくは意識のレベル(って、なんだー)が上がることはないと思います。その意味では、私立の学校で高い授業料を払っている被教育者(もしくはその保護者)は、「社会システムに対する支出」を個人レベルで行っていると考えるべきです。自分だけが有利な教育を受けるために近道に行くためのお金を払っているのではなく。


では、教育のレベルをどうやって上げるかというと、いくつか必須の事項があります。
まずは底上げを狙うためのカリキュラムです。よくできたカリキュラムと、いまいちなカリキュラムでは教育効果はものすごく差が出ます。このため、教育を考える人は必ず技術を何とかしてカリキュラムの形に直す必要が出てきます。技術単体では被教育者はかみ砕けないのです。
もうひとつは、教育者自体の底上げです。いくらカリキュラムがあっても、それを実行する教育者がいないと教育になりません。なので、教育者は最低でもそのカリキュラムと、そのカリキュラムの内側にあるはずの技術にある程度精通している必要があります。
が、ここに産業革命からこっち、ほげほげ(何でもいい。ソフトウェアでも、生産でも、情報でも)工学という物が意図して見過ごしてきた問題が隠れています。ほげほげ工学は、ぶっちゃけていうと「人間をパーツとして見なしても問題ないようにするにはどうするか」という大命題がその裏側に隠れています。取り替えのきくパーツとして人間を扱い、なおかつその均一性を高いレベルで保つにはどうするかを考えないと、ほげほげ工学は成り立ちません。そして、「取り替えがきくパーツ」でないと本当にいなくなったときに問題が起こったり、人数が増えたときに不均一な作業が行われる可能性が高くなります。不均一自体はある程度仕方ないのですが、不均一な上に作業クオリティが低いとなると大問題です。なので、均一性を高いレベルで保つための努力が社会的要請となります。
と、考えると、学校法人の専門学校などで、カリキュラムが学科創設時に保証され、なおかつそれから外れることが許されないのはある程度仕方がないことです。外れて高くなる可能性もありますが、外れて低くなる可能性も同程度ありますから。また、このカリキュラムを実行する教育者が独自性をわざわざ発揮しづらくなっているのも同じ理由ですね。
また、カリキュラム自体に意味があるのであれば、教育者はそれを実現するのに最低限な能力だけを持っていればかまわないことになります。また能力がだいぶ低いレベルであっても8割くらい(いや、9割行くかな)は問題なくこなせるのでますます教育者は省エネになっていく傾向があります。全体としてのコストを低く抑えて効果を高くとるようにシステムがチューニングされていくのであれば、それでもかまわないのかもしれません。
が。
私にいわせてもらえれば、ことコンピュータやらゲームやらの領域においては、時々刻々と変る世界に追随するにはカリキュラムの変化は遅いし、そもそも教育することによって被教育者が得られる技術レベルがあまりに低すぎます。何よりも、教育者自身がその低さに甘えているのがひじょーに痛い。彼らにいわせると「あまりに高度なことをやると生徒がついてこない」そうですが、そんなのは甘えです。ついてこないような意識付けしかしてないのが悪い。時間が足りないなんてのも甘えです。技術は変化し、習得しなければならない技術の量は年々増え、抽象化のレベルがどんどん上がっていくのは確かとしても、だからやらなくていいなんてことは全然無いです。やる必要があります。明確に。
本気で作られたカリキュラムは、しょぼいカリキュラムよりもずっと教育効果が高いという話は先に書きました。教育するべき内容が増え、高度になっていくのであれば、それに併せてカリキュラムは変っていくべきです。ついでに言うと、教育者はカリキュラムの変化に振り回されるのではなく(つまり、カリキュラムが変って慌てて勉強するのではなく)、あらかじめそれに対応できるくらいの素養を身につけておくべきです。そうでないと、カリキュラム自体を実行することができなくなり、当初の目的すらも達成できませんから。
その上で、「教材の読み聞かせ」に終止するのは、何も教材が悪いからではないと思います。教材を元に教える側の教育者の問題が大きくのしかかっています。教育者が本質的に血肉にして技術を理解しているわけではないのに、なんか見かけ高度そうなことをやると「読み聞かせ」になる傾向が高いです。もちろん、「読み聞かせ」ですべてを理解する生徒もいます。が、そんなのを期待してはいけないと思います。自らの信じるところを実践し、生徒に実践させ、その上で初めて被教育者の側も血肉にすることができるでしょう。
なので、私は正しい効果を及ぼす教育者が不当に高い利潤を得ているとは思いません。人一人あたまの教育にかける費用がどれぐらいになるのかは文化によってかなり異なりますので一概には言えませんが、少なくとも同年代の(という比較対象が出る辺り、日本は相変わらず年功序列だなぁ)、同学歴の技術職と同じくらいはもらってもいいと思います。
ただ、残念ながら私もすべての教育者が利潤に見合う働きをしているとは思いません。というか、大多数の教育者は、私基準からすると全然足りないです。そりゃ、当人からすれば「こんなにがんばってるんだからいいだろう」とか言いたくなるでしょうが、そんなのはがんばりで補う物ではないです。もっと、ありとあらゆることをどん欲に考えるべきです。少なくとも、カリキュラムを必死に追いかけるために勉強している時点ですでにダメでしょう。
そのためには本来的には教育者は常に研究を行い続ける必要があると思っています。と、考えると、大学ってよくできてるよなぁ。大学の先生、教育に力入れないことが多くて困っちゃうけど、教育にこだわるあまり研究しないよりはずっといいですね。


というわけで無理矢理まとめるとこんな感じです。

  • 教育者がシステムの中で不当な利潤を上げているとは思わない。が、大多数の教育者はそのシステムに見合うだけの働きをしていない。
  • 技術は社会に還元するべき物で、還元するための方法論に*ムリに*お金を求めるのは社会全体のためにならない。よって、お金をもらっていないからやらないという論理は不義にはならない。

え? わたし?
いやー、見合うだけの働きをしてない、と自分にずっと言い聞かせてたら、そのうち体その他を壊して病院に担ぎ込まれる羽目になりました。やー、がんばりで乗り切ろうとかするのはダメですね。
……そんな落ち?