○×にしても面白いゲームがいいゲーム理論

ってのは、BEEP誌上でUPLの藤沢勉さんが言ったのがたぶん人目に触れる最初だったんじゃないかと推測します。1980年代中程かなぁ。BEEP復刻版捨てちゃったんだよね。もったいない。


現代のゲームに「○と×で表現してもおもしろい」を無邪気に適用するのはちょっとどうかと思いますが、「おもしろい」ということを定型化するための要素抽出が必要なのは昔も今も変ってないと思います。むしろ、グラフィックなどの表現方法の発達した今だからこそ、要素抽出を行っても劣化しないレベルの何かという形で抽象化する思考訓練は重要でしょう。
例をいくつか挙げると、個人的にはFF7以降のFFというゲームはあまり好きではありませんが、これは「ムービーが多いから好きではない」のではなくて、「ムービーの量とは無関係にゲームがへぼだから」ですね。同じ時期の「グランディア」はムービーがそこそこ入っていても全然へぼじゃなかったですし(超どうでもいい話ですが、「グランディア」は再プレイすると「記憶よりもずっと多くのムービー」が入っていて、その代わり「明らかにムービーだった記憶があるところをちびキャラで」という発見があっておもしろいです)。
「ムービーに力を入れたせいでへぼなゲームになる」という因果関係があるのであればムービーなんかやめちまえとは思います。そこに因果関係がないのならムービーは非常にいい表現手段だと思います。ゲームって明らかにインタラクティブが必要なところと、インタラクティブが邪魔になる瞬間とがあって、これまたやっぱり何でもかんでもインタラクティブにすればいいってもんじゃないよなぁ、と。これまた個人的には何から何までインタラクティブなゲーム自体は好きですが。


ええと、なんだ。
どこを「おもしろい」と思っているのかを意識しないでゲーム作っちゃダメだろうということですね。「ストーリーを語る手段」としてゲームを使うのは(あまり相性よろしくないとしても)まあ、ありでしょうけど、「ストーリーを語りたいからゲームを作る」まで行くと、よっぽど考えないとうまく行かないだろう、と。いや、JRPGの制作者の大多数はあまり考えてる形跡無いから「ムービーのせいでへぼなゲームになる」という間違った因果関係が見えちゃうんだろうし。