創作行為

田中公平さんといえば私にとっては神様のような方で、軽々しく声をかけていいのやらって感じですが(インターネットの原住民でも、相手によってはそういうこと考えることもあるんですよ)、でも、どうしても書きたいので。しかし、アメブロってトラックバック受け付けてるのかな? ま、いいや。


むかーし昔のその昔、私がまだ小説を書き始めて間がない頃、「インスピレーションこそが全て。そこから先は単なる作業」と思っていた時期がありました。同じ頃、「ひらめかないプログラムは作れない」とも思っていました。私にとって小説を書く作業と、プログラムを作る作業はほぼ同質で、訓練を積むことによって(何せ、1ヶ月で400字詰め原稿用紙300枚だの、マシン語ソースコードを200KByteだの作ってたので)、

発想力<表現力

な、状態になっていたのですな。そして、どんな発想をしようと、それを外部に見える形にコーディング(符号化)するのは全然苦じゃないのでした。あえて言うなら、キーをたたく時間、鉛筆を走らせる時間という物理的制約に縛られるので、そこを可能な限り最適化すれば、どんなものでも書けるし、作れる、と。


ところが、ある日はたと気づきます。プロとしてやっていくのならコーディングの訓練はしたほうが絶対いいにきまってますが、無尽蔵の発想力ってのはないんじゃないか、と。
ちょうどその頃、作曲の勉強も始めました。美術の勉強も始めました。美術はいくら勉強しても「発想力」のようなものが全く身につかず(今でもコンプレックスです。かなりたくさんの本を読み、訓練したんだけどなー)、表現力にいたってはそれよりも更に劣るという悲しい状態。
作曲に関してはクラシックピアノの素養があったので発想することは何とかなった(ピアノに向かって1時間も思いつくままに弾いていると、断片が見えてくる。ピアノが弾けなかったら書き取ることも出来ないので展開させることも出来なかったはず)のですが、予想以上にコーディングに対してルールが多くてそのままではいい曲にならないのでした。たとえばポップス的にいうとコードの進行やリズムのアクセントの付け方(フィルインやリズムパターンを変えることによる効果)、コードを実際に弾く際の和音の分割方法やそのタイミング、和声を解決させる方法論やメロディーに対するオブリガートの対位法的なルール、各周波数帯の音色選びの方法等々(なので、この辺の教則本を山のように持っています)。
この辺の音楽、美術などに関しては

発想力>表現力

になっている自分に気づきました。
その上で更に「自分の発想力ってたいしたことなくない?」とまで思い始めたのです。


思いつくものを思いつくままにコーディングする……という方法論で、「何かのオーダーに合わせたもの」が出来ることは結構難しいです。それどころか、「こういうものが欲しい」と自分で思いながら全然違うものが出来るにいたっては発想力がなんの役にも立ってないという痛い結果になります。
なので、「典型的な**」みたいなものをたくさん自分の血肉にして、まずはそれをまねるところから始め、個々の要素が「なぜそうなっているのか」を分析し、その結果を基にもう一度発想し直すという手順を取るようになってきました。特にコンピュータ科学に関してはソースコードを読むことによってそれを書いたときのプログラマーの感情まで手に取るように判りますし、思考の枠組み(フレームワーク)まで再現できます。また、コンピュータ科学は「なぜそうなのか」について非常に明確に書かれていることが多く、きちんとした書籍に当たれば目指している問題の答えが自ずと求まることが多いのも、ますますその傾向に拍車をかけました。


とまぁ、そんな経験をずっと得ているおかげで、「神が降りてくるまでかけない」なんていう教え子には「そんなことをいう暇があるなら何か書け」という発破をかける今日この頃なのでした。それが発想の役に立たなかったとしても、表現力の訓練にはなります。あとは、役に立たない知識なんてものはないと考えるべきでしょう。漫画でも映画でもバラエティのテレビ番組でもいいのですが、必ずどこかで役に立ちます。それがいつになるかはわからないけど。