セカイ系という物語について(再掲)

現実世界は、政治などを扱う「大きな物語」と、個人に還元できる「小さな物語」によってできている、といいます。ここでの物語は「物語芸術(小説など)」のことではなく、感情移入可能な抽象物という意味ね。
通常「大きな物語」には個人はアクセスすることができません。このため、「大きな物語」にアクセスできるようになるために競争が行われます(アクセス可能な量と、それを志望する量ではアクセス可能な量の方が圧倒的に少ないため)。


そこで、「大きな物語」に一般の人が直接アクセスすることに対して快楽を見いだすという方法論が生まれます。私が初めて意識したのは「オーキ伝」についての土門弘幸の新聞のインタビューを読んだときでした。あくまで一般の人が、というのがみそね。「田中角栄が政界でぶいぶいいわせていた小説」なんてのは、田中角栄自身がちっとも一般人じゃないのでセカイ系とはいいません。
以来、私の快楽実現のボキャブラリとして「セカイ系」は大きく意識され、何作もそれをネタに小説を書いた気がします。便利なんですよ、どんなテーマであっても最後に「セカイ系」に話を持って行くと、読後感が感動的になるんで。


丁度今見始めた「超時空世紀オーガス02」も、この「大きな物語」と「小さな物語」について非常に意識された作品です。主人公リーンはさておき、ナタルマは「大きな物語」側の人間ですが、たとえば「ザーフレン語」という字幕によってしか何を言っているか判らない敵国の言語なんてのは、「大きな物語」を丁寧に書いている最たるものですね。またこれがきちんとドラマに絡んできているのがうまいです。


ええと、あれだ。
ようは、何を言いたいかというと「ライトノベルを書いてる人はセカイ系という快楽ボキャブラリを意識するといいことあるよ」ってことです。


・・2回も書き直したのにこの悪文っぷりはどうしたもんだか。とほほ。