死亡フラグの話

この項は携帯から更新です。既にくじけそう(;_;)
(はい、わずか2行でサクサクくじけました。ブラウザで誤って左キーを押してしまったため、10分以上かけて書いた内容が一瞬で消えたので。気を取り直してAd esから)
死亡フラグという言葉を使い始めた人たちに、否定的なニュアンスがあったとは思いません。
物語の類型として、一番死んで欲しくない人が、一番死んで欲しくないときに死んでしまうというシーケンスの感情を動かす力は絶大です。
とくに、物語芸術としての快楽は感情のふれ幅の大きさにかなり大きく依存していますので、快楽を求める人が、その類型自体を否定することはないと思います。
たしかに、次に何が起きるか予測できると感情のふれ幅は弱くなります。また、感情を揺り動かそうという意志が見えると、他人の意志の介在を良しとしない立場(これは、感情の蹂躙を感覚的に許さない、という感触につながっています)からすると、最大の効果を発生しそうなところでの類型の発動は否定的に捕らえることはできます。
でも、否定的に捕らえる人間は、少なくとも受けられるはずだった快楽を意図的にとり逃している訳で、そういう人が物語芸術に対してことさら多くを語るとも思えないのです。


ただ、死亡*フラグ*という表現をしているのにはマルチストーリーのゲームの一般化が大きく絡んでいると思います。
作内人物の自由意志(まぁ、実際にはそんなものはないのですが……)ではなく、プレイヤー(外部)からの介入によってプロット自身が変化するゲームにおいては、ゲームが語るのはプレイヤーの意志を汲んだストーリーの流れとなります。
たとえば、プレイヤーが入れ込んでいるキャラクターというものを客観的に計ることができるのであれば、プレイヤーの心を動かすのにもっとも手っ取り早い方法は、そのキャラクターを適切なタイミングで殺すことです。この、客観的に計り終えた瞬間がつまり、死亡フラグが立ったという事です。
もっとも、多くのゲームは快楽実現の方法として、プレイヤーの介入によってプレイヤー自身が望んでいる方向で世界を書き換えるというインタラクションを採用していますので、死亡フラグが立ったキャラが死んだだけでは何も快楽にならないのはゲームプレイヤーは皆知っているとおりです。
耐えられる程度の適度なストレスと、その発散。ゲーム的にいうと、到達目標(ゴール)へ向かわせないための障害(ハザード)とそれが解消される快楽(カタルシス)自体がゲームであり、ゲームとスタティックに作り込まれた物語は同義ではありません。
でも、ゲームのプレイヤーはゲームが課したハザードとしての心理効果に敏感になります。あ、今、フラグが立った、と。


出来事が引き起こす心理的効果という意味では、スタティックな物語とゲームでは、さほど大きな違いはありません。
もっと正確に言うのなら、物語という表現手段を借りたゲームにおいては、スタティックな物語との差は、表面的にはさしてありません。
ただ、スタティックな物語においては、読者の行動によってフラグが立つことは決してありません。死亡フラグが立ったかのように見える出来事は、単に物語構成上の心理的効果を期待した仕組みが表から見えているというだけのものです。
最初に提示したとおり、死亡フラグの存在自体が物語に悪影響を及ぼしているとは一概に言えません。むしろ、死亡フラグがきちんと機能している(感情が動かされた)のであれば、あざといといわれようと、類型といわれようと物語としては十分な効果を発揮していると思います。
ただ、あくまでこれはうまくいっていればこその話。十分な効果を発揮しない(作内の状況にリアリティを持てない、描写自体が理解できないなど、原因はたくさん考えられます)ときに、ただその 死亡フラグが立った という状況だけが意識に残るのではないかと思うのです。


以上、物語における死亡フラグというものをどちらかというと肯定した考察でした。
恋愛小説ふいんき語りにおける飯田さん率いる恋愛小説人権委員会からの作者への警告は、単に作者がヘボだったから発効されたのではないかと個人的には思っているのでした。ナラタージュも、恋空も、天使の卵も読んでませんが(^^;)。
(作者のみなさんごめんなさい。その上、おまえみたいなのははなから客と見てないよといわれれば、返す言葉もないのですが……)