OLPCと教育と構成主義と権威いうものの話

abeeさんのコメントを見て、いろいろ考えるところがありました。

ここで説明されている、強固な素朴概念(重いものがはやく落ちるなど)への執着を反例の提示により認知的葛藤を起こさせて科学概念に置き換えるという話が面白かったです。


結局、「学ぶ」というのは世界認識を書き換えていくことでしかないわけで、世界認識を書き換えるということは思考の一貫性(もっと広くとらえて「アイデンティティ」と言ってもいいかも)をあきらめるのと同義です。
とくに、低年齢の間はさほどアイデンティティが確立していないので書き換えは容易なのですが、年齢が上がるごとに自らの中にすでに存在する世界認識との矛盾に対して折り合いをつける必要が出てきます。それは、新たにやってきた経験を自分の都合のいい方向にねじ曲げたり、新知識を「聞かなかったことにする」と無視したり。
この立場に立つと、蓄積された経験が多ければ多いほど否定の材料は増えていきますので、結果として「子供のうちにいろんなことを学習するべき」という論になるのは納得が行きます。


とはいえ。
子供にだってアイデンティティや自らの存在に対するプライドはあります。見たもの、聞いたものに対する取捨選択の判断はまだ難しいかもしれませんが、それでも「自分に都合の悪い」世界認識は受け入れたくありません。
なので、多くの教育現場においては、「権威」によって世界認識を強要するという方針をとっています。曰く、「先生は絶対。先生の言うことはすべて正しい」。当たり前ですが学級崩壊したクラス(先生の権威がない場所)は、同じ授業をやっても学習効果は上がりませんし。
ただ、この方法論は実は学習自体にはかえって悪影響を及ぼします。と、いうのも、2種類の意味で「世界の認識」を行っていないからです。
一つ目は「判断基準を外部に求める」ということ。外部に求めることによって、思考停止を肯定することができます。
二つ目は「判断基準に認識のクオリティを用いない」ということ。情報の出展者に権威があるかないかだけが判断基準なので、結局「どんな情報なのか」は気にしません。
結果として、世界認識を書き換える(先ほどか何度か出ているこれをこれを「学ぶ」としてしまっていいと思います)ための「学び」は行われず、その上、育つに従って教育者は相対的に「権威」が下がっていきます。年齢が進むごとに先生は神様ではなくなり、反発対象になったり、神様ではない姿が見えてきたりしますので。
これらのことをふまえると、「教育」と一般に呼ばれる行為は実は世界認識を与える引き換えに思考停止を促す行為ととらえられても仕方ないとまで考えることができてしまいます。「思考停止させる」のが本来の目的ではないにしても。


さて。唐突にOLPCの話に変わります。
構成主義」自体をきちんと調べられていないのですが、いろいろな情報を総合すると、「権威」による世界認識の書き換えではなく、自らの判断基準による書き換えを促すという基本スタンスがあるように見えます。
まぁ、「権威」に依存した教育がある程度のところで頭打ちになるのはこの際当然としても、じゃあ「権威」に依存しない教育をどう運営するのかってのは残念ながらメソッドが全然見えていなかったりします。
たとえば、日本ローカルでかなり問題になっている「ゆとり教育」は、あくまで*本来は*権威による教育(詰め込み教育と言っていましたね)を否定し、自らの「生きる力」(これは自ら考え、判断する能力のことのようです)を養うのが目的でした。ところが、実際には前者は否定しながら、後者に関しては「総合的な学習」という微妙にカリキュラム化されない時間を増やしたのみで終わってしまい、結果として基礎学力を低下させる効果しか生みませんでした。義務教育の現場でどうだったのかは不明ですが、少なくともその結果の専門学校・大学生は目を覆わんばかりの惨状です。
文章化できる権威は、システムとして組みやすいですが、文章化しづらい「生きる力」の正体をシステムとして組むのはかなり困難です。なにせ、知識自体を文章化してしまった時点で「権威」になり下がるうえ、個々の学習到達目標も文章化できなかったりしますので(知識以外の理念は文章化できるのかもしれませんが)。
同じようなことが「構成主義」にも当てはまってしまうのではないかとちょっと怖くなっている今日このごろです。id:propellaさんのところのid:squeakerさんの言によれば、「生きる力」と同様に「採点」はできないようですし……。
ネグロポンテさんの話によれば、OLPC XO自体は、教育目的として「構成主義」で「学ぶことを学ぶ」ことが最終目標であり、教科書を読むためのeBookとしての機能はしょせん、普及させるための「トロイの木馬」であるとのことですが、正直、今まで伺っていた情報を総合するかぎりそこまで「学ぶことを学ぶ」にこだわっていたとは思いませんでした。
書籍としての機能や、それ以上の膨大な知識や世界に対する窓としてのインターネット接続を通して、自主学習したい人が目の前の先生以上の「権威」にアクセスできるということを中心においているのだとばかり考えていましたので。
こと自然科学的分野においては「構成主義」を中心理念に据えていくのであれば、せめて、学習の進行手順案だけでもOLPCが考えているものがあると非常に参考になるのですけど(進行手順案を出した時点で「構成主義」じゃなくなってしまうのかもしれませんが……)。


と、くどくど書いているのは、さっそくOLPC eToysにむけて、考え方と使い方のチュートリアルを書き始めた矢先に「構成主義がメイン」という話を読んでしまったからだったのでした。
だれもeToysの一貫したカリキュラムを考えないのならOLPC XO内の傍流として細々とやっていこう。どうにも「構成主義」で作るのは難しいっぽいし……と考えていたんですけどねぇ。
チュートリアル以外のプロジェクトがどれくらい入るのかわかりませんが、チュートリアルしか入らないのであれば、結果として構成主義は全然推進されないでしょうし。
気にしなくていいのかなぁ。誰かが「構成主義」を推進するための教材を山のように作ってくれるっていうのであれば、安心してあさってな教材を量産できるんですけど。何もないところから、そもそも正確に理解していない「構成主義」の教育カリキュラムを立てることは出来ないし。