論理による具体化の話

まず前提から。
C4の席上において、立命館大学の高田先生が、「プログラミングという世界分析の方法を、コンピュータ技術者以外の一般の人にも養わせることが、プログラムを教えるという意味である」のようなことをその発表「子供のプログラミング、大人のプログラミング」において行いました。
で、それに対して、(だれも質問しないのをいいことに(^^;)) Florian が「文系の人たちは、論理によって世界を分析、再構築することによって、分析している対象の世界(の自分の中での認識)が壊れるような獏たる不安を感じてるっぽいんだけど、それについて何か感触とかありますか?」というひじょーにアレな質問をしたことが発端です。
ちなみに高田先生が答えて曰く「特にない。というか、論理的に分析するのってやっぱり重要だと思うし……」。いや、重要だとは思います、もちろん私も(^^;)。


この場合の「文系の人」というのは、たとえば大学の学科のことではありません。職業のことでもありません。
ものすごくおおざっぱないい方をすれば、「世界を論理によって解釈しようという方向性を持たない人」のことを「文系」ととりあえず呼んでいます。この文章の中ではカギカッコつきで「文系」と以降記しましょう。
では、「文系」の人はどうやって解釈しようとするかというと、「論理化できない何か」で理解しています。論理化できないので、そもそも彼らが見ている世界を正確に再現するのは困難ですが、とりあえずおぼろげな理解を元に話を進めます。
実際の世界は結構複雑です。論理は、観察の結果導き出されますが、論理を組み合わせて現実を再構築しようとしても、完全に同じものが出来上がることはあんまりありません。そもそも、論理による記述は有限種/有限個のフレーズによって行われますので、不定数な因子によって構築される現実は有限のフレーズでは記述しきれません。
このため、論理はほとんどの場合「この部分はほにゃららとみなす」という枝切りをした上で成り立っています。
逆に、枝切りをしないよう心掛けた論理は記述のためのフレーズがとにかく膨れ上がり、結果として再構築がえらい困難(できなくはないけど、人間の頭の限界が先にきちゃう)になります。
そのうえ、論理を導き出すのはかなり大変です。人間の言語による表現方法は、意思決定機関(「思考」と呼んでもいいかもしれません)の動きとは無関係のもののようですので、その2つを結び付けるのはかなりのストレスになります。ストレスを受けながら、その上たいして役に立たない(ように感じる)のであれば、わざわざその方法をとる意味は薄いです。
なので、論理による記述ではなく、頭の中のもやもやしたもの(これを「感性」と呼んでもいいかもしれません)を元に現実解釈と再構築を行い、結果として不完全にならざるを得ない論理の記述をしない方針も取りうるだろうとは思います。むしろ、論理を表現するストレスや、そこまでやっても不完全な記述しかできない上に、それ自体がコミュニケーション(論理は聞く側にも論理を立てる素養を要求するので)や現実の再構築に対して役に立たないのであれば、論理化から一歩身を引いて考える人の方が多くなるのも理解できます。
結果として、どちらがいい、悪いという話ではなく、いわゆる「理系」よりも「文系」の人の方が絶対数としては多くなり、そのため、「文系」の弊害の方が表に見えやすくなり、「理系的思考を育成しよう」(文系的思考は推進しなくても増えるから)という号令が目立つのではないかと思われます。


で(長い前置きだった(^^;))、はじめの話に戻りますが。
「文系」の人たちは、「理系」的な思考法にどうも恐怖を覚えているみたいなんですよ。
いろいろ話を聞いていると、その「解釈」する際に、論理によって再構築可能な方法論を提示すると、それによって解釈対象物の自分の中での価値がなくなるような気がする、というか。
ええと、微妙にぴったりするかどうかわからない例なのですが、ここでの「文系」の人たちは論理の方法論の一つ「還元主義」を嫌がります。
たとえば「愛というのは、脳内の化学物質のことである」という論があったとしましょう。確かに感情は内分泌系に作用されますので、この話自体はえらい乱暴ですがさほどずれたことは言っていないと思います。
でも、「文系」の人は、その論自体を否定にかかります。
それによって「愛」自体をおとしめられた。「愛」はもっと高尚なもので、そんな単純な再現方法が許されるはずがない、と。
ともあれ、その「恐怖の根源」みたいなものがなんなのかは、残念ながら根っから理系の私には正確に理解できていません。でも「文系」の人に対してもコンピュータのプログラミングを推進(というか、教育)せざるを得ない現状においてはなんとかしてその恐怖をおしてでも世界の論理による分析をさせなくてはならないのです。
だから、同じ境遇のように見える高田先生に「何か感触があるか」という質問をしたのでした。


さて。以降、話は遥か彼方まで脱線します。
かつて、アラン・ケイポップカルチャーの弊害としてインスタントな理解で思考停止してしまうという状況を指摘していました。単純な二分化法で世界をばったばったと切りまくる世界理解は、確かに非常に明快ですが、そのために正しい理解(いや、そんなものがあると仮定して、ですが)を阻害する現状があるのであれば、世界の様々な問題を解決することはこれから先の未来も相変わらず難しいのかもしれません。
これは、適当な理由をでっち上げて、それがあたかも妥当であるかのように錯覚させる疑似化学や、ある地点での思考停止を強要する、一般的な意味での宗教なども同根です。
しかし、先述した通り、複雑な世界を複雑なまま論理化することもまた難しく、逆に論理化しないままだとその世界を何らかの方法で再現するのはさらに難しいです。結果として、単純な方法論を持って、八割がた正しいっぽいように見える論理化で手をうって、不完全ながらも工学的にはおおむね妥当という線での世界の再構成を目指す形になります。
うーむ、もしかして、この「八割がたで手を打つ」こと自身が誤りだったりするのかなぁ。とはいえ、立ちどまってても何も生まれないしなぁ。
現世の生産性を求めざるを得ないしがない一市民にはポップカルチャー批判はつらすぎます(;_;)。


……というようなことを思った今日このごろだったのでした。