ゲームと物語

ゲームが好きです。もう長いこと、ゲームと沿い遂げる覚悟でいます。もう、なんだかんだとゲーム以外の仕事もしてはいますが、心はいつでもゲームです。
物語芸術が好きです。これまたやっぱりかなり長く書いたり、読んだりしています。メディアも全然問いません(あー、テレビドラマは苦手。というか「テレビ」というメディアが苦手)。
なので、もちろん、ゲームを使って物語を語るのも好きです。語られているメディア(この場合、ゲームは媒介物/メディアとして見ることができます)も、語っている物語ももちろん大好きです。


でも。
「大好きである」という告白をしておきながらいいます。
ゲームって、物語を語るのに向いているとは思えません。


「物語」というものは、事柄の連鎖によって感情を動かす方法論、もしくは感情を動かすことによって得られる娯楽のことをさします。このとき、事柄自体はなんであってもかまいませんが、感情を動かすことを念頭におくと、事柄に対しておのずと文法が決まってきます。たとえばそれはテンションの波のタイミングだったり、問題提起とその解決によるカタルシスだったり。
また、感情を動かすためには、受け手の側が目の前で起きている物語の流れを「自分のことのように」追いかけられなければなりません。なにも、主人公と同一化するという単純な話ではありませんが、少なくとも、起きている出来事をあたかも現実と錯覚させるような手順が必要になるはずです。
というのも、人間はあまり理解力のある存在ではありませんので、「それが自分に降りかかるか」という観点でしか現実を感じ取ることができません。毎日世界のどこかで、飢えや病に倒れている人は確実にいるはずですが、「飢えや病で倒れている人がいる」という言葉を聞いただけで眉をしかめることはできません。そのくせ、目の前で飢え、病に倒れている人がいたら、助けるにせよ目をそらすにせよ感情はつき動かされます。物語においても、感情を動かすには同じような状況を錯覚させるしかないです。
でも。
ゲームというメディアは、この二つの前提に対して、あまりに寄与してくれません。むしろ、相対するぐらいの勢いです。
たとえば、「事柄の連鎖」という一点を取っても、ゲームがゲームであろうとする限り、連鎖させることは難しいです。なにせ、ゲームとプレイヤーの双方向に情報がやりとりされますので、物語を連鎖させないという抵抗を行うことはゲームにおいてはたやすいです。ましてや、物語によって抵抗を行わせないように作ったとしても、ゲームである限り物語以外の部分に快楽を見いだすことはいくらでもできてしまいますので、物語が引っ張るのはある程度限界があります。逆に、抵抗することによって「楽しめない」ようなつくりにしてしまうと、今度はゲームである理由がなくなってしまいます。
感情移入だって同様です。プレイヤーの感情を特定の方向に持っていくための演出を物語の中に込めておいたとしても、ゲームとしてのルールをまっとうしようとするとその方向性はいともたやすく崩れてしまいます。ストレスを与えて物語で発散させるにしても、どうにかしてそのストレスをゲーム的に発散するかという方向でプレイヤーは動いてしまうでしょうし、これまた逆にストレスを発散させないようなルールにしてしまうと、ゲームである意味がなくなってしまいます。
どう考えても、ゲームであることを守ろうとすると物語は語りえず、物語を語ろうとするとゲームであることが邪魔になります。
もちろん、せめぎあうことによって、今まで見えなかった何かを生み出すという考え自体を否定するものではありません。でも、明らかにいびつなつくりであるということ自体は避けられるものではありません。


その上で、いつも思うのです。
なぜ物語作家は、ゲームみたいな向いてないメディアでわざわざ物語を語りたがるのか、と。


まぁ、そりゃ、今時のゲームは望むと望まざるとにかかわらず物語を入れなければならなくなっています。グラフィックが限られていた80年代ならばともかく、ゲームの世界にプレイヤーを引き込むための方法論として、現実に近い、感情移入できるためのメタファを用意することが社会的通念になってしまっている現状では、物語の一つもないゲームは商品として成り立たないとは思います。
でも、だからといって「物語を語る」ことをゲームの究極の目的としてしまっていいのかと悩むのです。手段としての物語ならば、いびつさを容認することもできるでしょう。でも、目的として大上段にとらえられてしまうと、そのいびつさだけが目についてしまいます。少なくとも、私には。
わざわざ、特にスタティックな(あらかじめ定められた)物語を語ることを主眼においたゲームが、その物語をもって評価されているところを見るたびに、「いやいや、そうじゃねえだろう」と思わず言いたくなるのですよ。