相棒との会話(「アート盲宇宙人」のはなし)

(承前)
「そりゃ、答えてくれるわけないよ」
「そんなものですか?」
「Florian、自分のゲームの意図がプレイヤーにばれると困る?」
「いや、ぜんぜん。むしろ、意図が伝わった方がきちんと楽しんでもらえてうれしいです」
「アートは「解釈」という行為自体を楽しむものだから、解釈が固定された瞬間に作品が死ぬんだよね。だから、意図したものが何かあったからといって、作者自身が明言する訳がない」
「でも、意図や作品の価値を対外的にアピールできないとお金出してもらえなくありません?」
「それは、私達が作ってるエンターテインメントが「製品」であり「商品」だからだよ。アート自体は「商品」であってもいいけど、「商品」を意図したものではないから。さっきも聞いたけど、エンターテインメントは意図の上で「楽しむ」事ができれば解釈が固定しても商品価値はなくならないけど、解釈や感覚自体で感情を動かすというアートは作る前にそれを分からせるのは非常に難しいし、できてからでも「商品価値」をある程度客観的に評価することを望んでない」


うーむ。
続きます。


「だとしても、アートに対しての外部からの言及で、意図をぼかさなくちゃならない理由がないですよ。外部の人間は当の作品を殺してはいけない理由はないはずなのに」
「そりゃ、アートに対して語る人も自身もアートに関わっていたいという幻想を捨て切れないからじゃないのかなぁ。解釈を固定化させる作業を行っちゃった人は、アートの世界にはもう住めないから。自らアートを生み出さなくてもね」


id:propellaさんの言う「文脈依存」という言葉も分からないではないのですが、アートに対するマスコミなどの言説の空しさ(結果的に「何も言っていない」ようにしか見えない)の根っこに対する腑に落ちる説明でした。
まぁ、だからといって私に明確な解釈作業が行えるかって言うと、ちっともそんなことはできないんですけど。分からないものは、書けないしなぁ。


そのうえで、コメント(id:Florian:20051220#c)に対してちょっと。

  • mukaiyamaさん

僕なりにエンターティンメントとアートをわけるとすると、これらは作る過程は似ていても楽しみ方が違うものと思ってます。

これに関しては同意します。同じものを見た時にも、「アート」として観賞するか、「エンターテインメント」として観賞するかによって、見え方が違ってくると思います。多分。私自身は「アート」についての観賞というものをしたことがないので、回りを観察して導き出した結論ですが。
ここで大事なのが、作者が文句を言わない限り、「アート」と「エンターテインメント」のどちらに類するかは作者は規定できないということだと思います。
例としては「浮世絵」です。少なくとも作者は確実に「エンターテインメント」としてしか作っていなかったはずですが、今はあれをアートとしてしか見られません。今から100年もしたら、エロゲーや萌えフィギュアも同じように「アート」としてしか取られないでしょうし、全く異なる文脈に置いたときには「エンターテインメント」として観賞することはそもそもできないでしょうから(そういう意味ではベネツィアビエンナーレの日本館は当時大層示唆的でした。おたくの内側の人間として)。
でも、

エンターティンメントはわかりやすく体感的に楽しいもの、アートは自分であれこれと解釈して頭の中で楽しむもの。と思っています。

これって一般的にそうなんですか?
「エンターテインメント」が人間の本能的な何か(楽しく思うツボというか「その辺のスイッチ」)をつつく方法なのは確かだと思うんですけど、アートって解釈しないと楽しめないんですか?
そりゃ、私個人は職業的な興味で社会的な意義や、作った際の作者の意志は非常に気になりますが、そんなものは

たとえば500年以上の歴史を超えた絵画を目の辺りしたとき、やはり何回見ても飽きの来ない力強さを感じます。

という意見とは無関係ですよね。
「アート」を解釈して*たのしんでもいい*とは思いますが、それは、作品が内在している被解釈性(って、言葉は無いかも。解釈されうる素地、とでもいうのかなぁ)が大きいか小さいかしか評価できず、感情的に語ることを許されないとは思えないのです。
むしろ、

  • propellaさん

ちなみに、上にアートは結論を求めないと書いてあるますが、アートの結論はズバリ美です。美はある意味個人的で当たり前すぎて分かりにくいのです。

この意見の方がしっくりきます。
「エンターテインメント」が人間の「その辺のスイッチ」を押すための存在であるように、「アート」が人間の「美と感じるスイッチ」を押すための存在であるのならば、人文的な結論を語りたがらない理由もわかります。ついでに、

しかもみんな斜に構えてるから、美を追求するためにアートをやってるとはなかなか言ってくれないです。

ってのも、非常にしっくりきます。「美しい」事を表現するために「美しい」という言葉を使っちゃうと負けって意識ですね。


実は、私は非常に「美術」(「アート」という広い括りじゃ無くて、絵画や彫刻とかのことです)ってものにコンプレックスがあって、有り体に言って、ちっとも「美と感じるスイッチ」を押されないのです。
そのくせ、創作行為にえらい意識的なので、「何とか美術を自分で創作できるようにならなければならない」という不思議衝動に駆られてだいぶ勉強していた時期がありました。
その結果、「自分では美しいと思わないけど、一般には美しいと言われるようなパターン」というものが世界には存在し、一般にはそのパターン自体を大変珍重しつつ、パターン自体を直接見つけるとほとんどの場合蔑むという矛盾に苦しんだ事があったのですが、なんとなく感情の流れがつかめてきました。
・・って、話をしているって事は、結局私はこれらの話を自分の身に当てはめることすらもできずに観察してるってだけだって事ですね。とほほ。人間って難しいなぁ<宇宙人的発言(^^;)