レッテルを張って判った気になる、ということ

前項の続きです。


私は、非常に印象や思考を言語化する、ということに意識的です。少なくとも、実際に上手くいっているかどうかはさておき、言語化しようとさまざまな形で努力していること自体は確かです。
なので、結構いろんな人から「理屈っぽく考える」と言われますが、実際は全然そんなことはありません。ハイパーリンクという言葉を思いついたテッド・ネルソンさんの言うとおり、少なくとも私の思考自体は一次元ではなくネットワーク構造をしており、ネットワーク構造を破綻ない形でシリアライズ(直列化)しようとすると、結果として論理という形が言語の一形態として出てくるってだけで。たまたま日本語という自然言語で話すことが多いですが、もっとシンプルで豊かな論理記述言語があれば、それでもいいかも知れません。
で、ここで重要なのは、少なくとも「思考を論理化したものが言語である」というセントラルドグマがあって、「理論によって思考する」という方向に進まないよう自分を律する必要があるだろうということです。これを認めちゃうと「自分の言葉によって思考が縛られる」というあまりよくないフィードバックが始まってしまいます。
ましてや、「世界」というのはそのまま理解するにはあまりに複雑ですので、なんらかの形で「観察」しなくてはなりません。観察結果は、観察方法によってコロコロ変わりますので、観察結果を統べる統一理論はなかなか見つかりません。でも、だからといって「レッテル」を貼って「判った気になる」という思考停止は、観察を妨げます。


と、私は、唯一絶対のセントラルドグマで世界観察をしているつもりではいるのですが、それでも破綻したり、気づかないうちに「レッテルに縛られる」行為をしていたりもします。
しみじみ考えると、「アート」関係の人が明言を避けていたのはこの辺が根っこなのかなぁ、とはぼんやり考えていました。
べつに、私が掲げているセントラルドグマって、あんまり有効じゃないかもしれないしね。