未来にキスを(ASIN:B000065D3Z)

なぜかSL-C750Squeakが動かなくなってしまったので(なぜだろう?)、最近は行き帰りはWaffleでゲームやってます。いや、家にいる間Squeakを復旧する余裕がなくって(^^;)。


未来にキスを」は今となっては結構昔のゲームです。Windowsにインストールしたっきり放置されていたのですが、この度やーっとエンディングまでたどり着きました。
クリア順は、しいな->式子->霞->ゆうか->Trueの順。
以下、長文で。
おもしろかったです。
どのエピソードも、前半と後半のギャップが激しいですが、いきなり後半のペースで飛ばすと本作のテーマである(と、当時企画担当の元永さんが言っていたと思う)「エロゲー的世界観の総括」(正確には「人類史というパースペクティヴにおいて美少女ゲームを定位する作業はこれで一段落」)の「エロゲー的」の部分が抜け落ちちゃうしなぁ。いちゃいちゃゴロゴロしたり、むやみにどこでも本番に突入したりという一種異常な展開があってこその後半だし。
現実との接点を無理やり作るのではなく、作品を作る、鑑賞する側における思想の体現という意味で見るのが正しい解釈なのでしょうけど、半ば無理やり現実との接点を意識した文章に以下はなっています。そのつもりで読んでください。


各人のテーマをそれぞれ上げるとこんな感じになると思います。
・しいな:自ら規定した既存の枠組みからの解放
・ゆうか:分かり合うという妄想からの解放
・霞:妄想の中のキャラクターに萌えることの肯定
式子に関しては、作品の解説自体の役割も持っているので、個人に由来したテーマは薄いですが。式子がいないと論理の中で動いた感情を肯定するフェーズ(恋なんて妄想と本能に根差す状態だよね、と再認識)がないので全体を通したストーリーが成り立たないというか。
この作品においては、どのストーリーもなんらかの問題提示と、提示された問題は「恋」や「妄想」によってすべて自己肯定されるという流れになってます。
当然ながら、エロゲーにはエンターテインメントとしての作品という側面がありますので、見ている人になんらかのカタルシスを与えるような作りになっています。この作品においての最大のカタルシスは、「エロゲーをキャラクターに萌えて遊んでいる人の全面肯定」にあると私は見ました。
でも、少なくとも作者であるところの元永さんは啓蒙的な視点で「全面肯定」を社会的に正しいとは思っていないであろう事はあちこちから見て取れます。あくまで、現在社会的に存在する状況を分析し、「今はそんなふうになってるよ」という、割合主観を廃したしてんから報告しているという、ある意味ジャーナリスト的な観点から物語をつくっているように見えます。
それは、思索のための素材の提示。
新しい世界を計るためのものさしの提供。
主人公(≒プレイヤー)は本当の意味で「新しい、人間以外の何か」なのではなく、「新しいものさしを使うことによって、思索を楽しめるよ。早くこれを使って楽しんでよ」という誘いのせりふとしてプレイヤーを持ち上げている、そんなふうに思えてならないのです。
エンターテインメントとして、作品の本当のカタルシスを、物語ではなく世界への視点として提供するという方法論は、「評論」というジャンルの文学にかなり近いのではないかと思ったりするのでした。

同じ作者の前作になる「Sence Off」(ASIN:B00008I42B)が「物語としての力」をかなり意識した直球だったのに比べると、今作においては物語りやキャラクター自体は単なる「箱」であり、そのなり立ちには大きな意味を持たないというかなり割り切った作りになったのは、作者である元永さんの「Sence offで作家としての禊は済んだし、しばらくは物語を道具として使ってもいいよね」という意識があるのではないかなぁ、と思っています。
物語が物語単体として価値を持っていた(人間が人間であった)時代は既に終わっており、物語の内側ないしは物語の導き出す妄想の延長線上に世界があるという東浩記的な世界観は、まぁ、なるほど「エロゲー的世界観の総括」には違いありませんやね。


・・しかし、これは同じようなメタ視点の「Forest」(ASIN:B00019P6I6)よりもさらに客を選ぶなぁ(^^;)。「Forest」はまだエロゲーをやらない人に押し付けても楽しめると思うけど、「未来にキスを」は、「エロゲー的世界観」が分からないと何を語られているのかが分からないもんなぁ。
結構いろんな人に押し付けてみたいんだけど。