実世界(id:propella:20041227#p1)の話

realとvirtual。この言葉って、コンピュータ業界では一般的に使ってますが、明らかに変な見方だと思っています。「ありもしないものを、とりあえずある物として考える方法」という状況をvirtualと定義していますが、日本語訳の「仮想」ってのも微妙な訳です。
その筋の人たちにとっては、virtualは一般的とはいえ、この感覚自体は訓練によって獲得する物であり、人間の意識に元から備わっているわけではないと思っています。
たとえば、オーディオマニアとしての自分は、「あの素晴らしい音楽をもう一度」と思いながらいろいろ試行錯誤しています(最近ではTimedomain miniが自分的にはかなりのヒット)が、別にオーディオ機器にこだわらない人でも音楽に感動することは出来ますし、むしろ、無理に原音再生にこだわらなくては感動することも出来ない自分の方がvirtualize(仮想化)出来てないという見方だってすることが出来ます。
音楽に限って言えば、音楽は人との対峙であり、生の演奏こそが素晴らしい物である……という見方は出来ますが、音楽として作られていない人工的な何か、たとえば工事現場のリズミカルなボーリング音や、鉄道のレールの継ぎ目の音にだって人の感情は動かされうるし、同じぐらいにシーケンサやサンプリングループの単純な組み合わせにだって感動することは出来ます。そこにあるのは音というイメージだけであり、そこには演奏という過程すらも踏まれていません。
これをさらにさらに推し進めていくと「Adimのコードって官能的だよね」とか「1.5倍音が美しい」とか「矩形波の単音が」とか(^^;)、大変にマニアックかつ誰も付いてこられない方向に進んでいくのですが、まぁ、それは、さておき。


聞こえる物、目に映る物、削り出された金属の感触、物語などの言語化された物など、感覚器官をふるわせる何かを「鑑賞する」という行為がそこにある限り、言葉は主観を客観に変換するための方法論にすぎなく、言葉によって語られてしまった主観はその程度のものに定着されてしまう危険をはらんでいると思います。
でも、主観は厳然として存在し、主観は主観である限り、意識の中で処理される過程でどんなに情報量がそぎ落とされようともその感触だけは残り続ける気がしています。それは、real(実際に存在する)とか、virtual(それが、あるものとして仮定する)とかいうくくりを乗り越えて、確かにその瞬間にはあったと信じたい、と。
そんなことを考えながら、創作行為を続けている今日この頃です。